音楽好きによる音楽好きのための祝祭―FRUEZINHO 2024
2024年7月6日(土)、 “魂の震える音楽体験”を掲げるFRUEが主催する都市型音楽フェス、『FRUEZINHO 2024』が開催された。「『フェス』というほどには過酷ではなく、『コンサート』というほど固くなく自由な環境」をコンセプトに〈立川ステージガーデン〉で毎年夏至の時期に行われている。一筋縄ではいかない通好みの出演陣が一堂に会する一方、老若男女を問わない多様な客層や生活空間のすぐそばで繰り広げられるシチュエーションなど、今までにない音楽体験の場を実現していた。
日常のすぐそばにある音楽という異界
毎年、静岡県掛川市で開催されている『FESTIVAL de FRUE』のスピンオフ企画として夏至周辺の時期に行われている『FRUEZINHO』。会場となる〈立川ステージガーデン〉は立川駅から徒歩10分弱、新興住宅地と再開発エリアが広がる真新しい街の中心部にあり、山の豊かな自然に囲まれた『FESTIVAL de FRUE』とはまた違った趣がある。
筆者はFRUE主催のイベントに共通するフィロソフィーとして、いかに“素の状態”で音楽を楽しむことができる場を提供するかに、重きを置いていると考えている。秋も深まる山の中で、リラックスした空気の中で上質な音楽に触れる『FESTIVAL de FRUE』も、人々の生活の営みがあるすぐそばでアーティストたちにとって普段とは一味違ったライブが繰り広げられる『FRUEZINHO』も、その意味では根底で通じている。この日も、集まったリスナーの様子もどこか気負いがなく、穏やかな空気が流れていた。特定の音楽を好きそうな人がずっと音楽談議をしているような敷居の高さもなければ、非日常にはしゃぐような浮かれた空気もない。
音楽ジャンルでいえばそれぞれ大きく振り幅がある面々のライブが繰り広げられたこの日。いつもの単独公演やライブハウスとは少し様子が異なるステージにも感じられた。老若男女を問わず、音楽好きが肩の力を抜いて自由に楽しむ一日であり、アーティストたちとオーディエンスが創り出した空間は、他のどんなフェスや音楽イベントにもないものだった。
HAPPYが創り上げた束の間の桃源郷
京都出身の5人組サイケデリックロックバンド、HAPPY。楽曲の素晴らしさもさることながら、彼らのライブを一度でも見たことがある人ならその圧倒的な求心力と、自らの世界へと引きずり込む構成力の高さに圧倒された記憶が、脳裏に焼き付いているはずだ。6月26日に3rdアルバム『Ancient Moods Mahollova Mind』をリリースして間もないタイミングでの出演という絶好のタイミングや、野外フェスでもライブハウスでもなくコンサートホールで彼らの姿を目にするという特別感も含め、「何か起こしてくれそう」な期待感が高まっていた。
出番はトップバッター、11時50分スタート。まだ客入りもまばらながら、始まった途端、前方へと吸い込まれていくようにオーディエンスが集まっていく。『Ancient Moods Mahollova Mind』のオープニングを飾る“Solar Notes”から、音源では味わえないエキゾチックなアンサンブルの奥行がコンサートホールの反響を通して脳幹に響き渡ってきた。
アルバムの曲順を踏襲した“Sundowner”へと移り、サイケデリアの濃霧が徐々に充満していった彼らのステージは、前半ということもあり持ち時間は決して長くない。長尺の曲も少なくない中で持ち時間の中に彼らの魅力と世界観が詰め込まれていた。アルバム曲の深遠さに呆気にとられる間に、いつの間にかトリップ状態へと達してしまう。そんな人も少なくなかったのではないか。途中から曲ごとの切れ目すら意味をなさないくらい、完全にその空間を作品として届けていた。新譜をリリースした直後であっても、単なる“お披露目”にはしない。一種の舞台芸術のように、ステージの始まりから終わりまでを一つの“世界”として届ける。だから、HAPPYの創り上げる空間は、二度と同じものは味わえないのかもしれない。それを堪能できたことはこの場に居合わせた人だけの特権といえるだろう。
噛みしめる折坂悠太の陰と陽
同じ銘柄のコーヒー豆でも、お湯の温度や飲む時間帯、飲む場所によって味や香りの感じ方が全く違う。折坂悠太の音楽はそれに似ている。存分に個の目線で創られた音楽であり、豊かな情景描写も相まって本人にとっては限定的な場面を歌っていながら、不思議とどんな感情で聴いてもリスナーの心に寄り添ってくれる。
バンドを従えホールに立つこの日の折坂のステージは、そんな彼の歌に光を当ててその陰の部分が浮かび上がるような印象を受けた。親しみやすく、ポップなメロディと、人懐っこく愛嬌のある歌声。昼か夜でいえば昼のイメージだろう。ただ、この日の歌声や、彼自身の表現力、即興性が強い演奏、複雑に絡み合うアンサンブルは狂気を内包していた。
親しみやすさの中にどこか不穏さすら漂う。ふかふかの椅子に座り、真夏の白昼に老若男女が集まる賑やかな空気の中繰り広げられたパフォーマンスは観ているうちに鳥肌が立ってくるような“ゾワゾワ”するものだった。
全体を通して、その不穏さと親しみやすさは、表裏一体のものだと感じられた。ステージで垣間見えた狂気は、誰もが抱いている心の“陰”なのかもしれない。だから、不穏さはあれどそこに近寄りがたさは感じない。観終わった時に清々しさすら覚えるのは、そんな彼の“陰”が持つ魅力といえる。
何が起きるかわからない鬼才の共演、Juana Molina with Sam Gendel
地球の裏側、アルゼンチンのブエノスアイレス出身オルタナティブフォークシンガーJuana Molina。アンビエントを大胆に取り入れた“アルゼンチン音響派”を代表する存在としてDavid Byrneにも絶賛されていることで知られる。高橋幸宏やEGO-WRAPPINとの共演歴もあり、日本とも縁深い。そんな彼女がLAを拠点に活動する前衛マルチプレイヤーSam Gendelと一日限りの共演を果たすというのがこの日のステージだった。
日本で観られることも含めて、相当レアな体験であることは間違いない。そして、それが単独公演ではなく音楽フェスの中で行われるということも興味深い。たとえば、2013年にJuanaが来日公演を行った〈BLUE NOTE TOKYO〉で、彼らのコアなファンだけが目撃するというのも充分にあり得たはずだ。このフェスには、恐らく2人のことを全く知らないであろうリスナーも居合わせている。そういう状況でもう二度と観られないかもしれない鬼才同士による化学反応が目撃される、という事実がこの瞬間と空間を一層特別なものにしていた。
音数は絞り込まれている。元々Juanaの曲もギター一本と歌を軸としているものが中心であり、ステージに立つのは彼女とSamの二人だけ。ライブが進行するうちにそのことが信じられなくなるくらい、躍動感とグルーブ感をもって二人を中心とした熱狂の渦が作られていった。時にダンサナブルに、時に禍々しく、時に水面のように繊細にMolinaの歌うメロディラインと、Samが創り出す予測不能の生々しいグルーヴが呼応する。別々の生き物がやがて一つの生命体になり、制御不能に暴れ出す様を観ているようだった。
当然のように、オーティエンスはそのエネルギーに翻弄されるがままだ。抗えない衝動が身体を動かし、Samのソロパートは固唾をのんで見守る。Juanaの歌声にも何かが乗り移ったかのような神々しさがあり、やがて前のめりになっていく。音楽が人の意識を奪い、呑み込んでいく。そのエネルギーのすさまじさは、二人のことを初見、若しくは知らなかった人たちもいた、ホールでのライブだったからこそ証明された。
Mulatu Astake、魂を震わせる熱狂と躍動のグルーヴ!
大トリを務めたのはエチオジャズの始祖として一部のリスナーからは神格化されているMulatu Astake。本当に生で観られるのか。存在を知っていてもスピーカーの向こう、バイナル盤の中にしかいない存在だと思っていた人も多いのではないだろうか。
実は、2013年に『FUJI ROCK FESTIVAL』に出演しており、来日は2度目。とはいえ、11年ぶりの来日とあってその時間が特別であることには異論はないだろう。御年80歳、遠く離れたアフリカのエチオピア。2020年にはBlack Jesus Experienceのアルバム『To Know Without Nothing』に参加しており、今なお現役で活動しているものの来日してのライブとなれば話は違ってくる。
そんな奇跡の来日は、期待にたがわぬほどにエナジスティックで、パワフル、厚みを感じさせるものだった。バンドと共に登場したMulatuをオーディエンスたちは拍手喝采で迎え入れる。どこか郷愁を誘う日本民謡にも似たセピア色のメロディ、ラテンミュージックの影響を残した情熱的なグルーヴ、ヴィブラフォンの有機的な音色が合わさった音像に、冒頭からボルテージが一気に上がっていった。
ハイライトは代表曲の一つ“Yèkèrmo Sèw”だろう。一度聴いたら耳から離れない、イントロのフレーズがホールに鳴り響いた途端、この日一番の歓声が鳴り響いた。ミドルテンポの強固なグルーヴに乗って、バンドメンバーたちがフルパワーのパフォーマンスをぶつけ合う。野性味溢れる手に汗握るせめぎ合いは、レコードで聴いたオリジナルバージョンよりも遥かにスリリングな響きを持っていた。“ちょっと異国情緒を感じるおしゃれなBGM”には絶対に収まらない生々しさがむせ返りそうなほどの高密度でオーディエンスに届けられた。
アンコールも含めて1時間半以上の間繰り広げられたライブの間、ステージの真ん中で淡々と演奏するMulatuの姿は、もはや超然とした佇まいだった。猛者が集まった百戦錬磨のバンドメンバーをしても、彼はもはや別の境地に達しているかのようだ。ほぼずっと、直立不動。ねっとりとして、じっとりとして、熱帯暴風雨のように荒々しく動き回る彼の楽曲とは対極な印象に映る。そんな泰然自若とした姿は約11年ぶりに見せてくれたレジェンドの雄姿として、この日見届けた全ての人の脳裏に焼き付いていることだろう。
やれやれといった様子でアンコールに応える彼の姿には、微笑ましさすら感じさせたMulatu。衰えを知らないどころか、当時の音源以上の凄みをもって迫ってきたパフォーマンスだった。しかし肉体的に長時間のライブパフォーマンスは今後ますます難しくなっていくだろう。すべての音楽ファンにとって最高の贈り物を、限界ギリギリまで力をふり絞って見せてくれたMulatuに敬意と感謝を込めたスタンディングオベーションが贈られた。
ステージを離れて、またいつもの暮らしに戻っていく
市街地のコンサートホールで開催されながら、席移動も出入りも自由という点ではフェスを踏襲している『FRUEZINHO』。まさに、「『フェス』というほどには過酷ではなく、『コンサート』というほど固くなく自由な環境」が実現されていた。
それは客層の多様化にも一役買っているようで、あまり他所のフェスでは見かけない人たちも見かけられた。たとえば、まだ幼い子どもがいて、数年前のように気兼ねなく遠方のフェスには行けなくなった若いファミリー層。ステージ前を除いてホールの席に腰かけて観ることができるため、筆者自身フェスや長丁場のライブイベントで感じる疲労感はさほど味わうことなく、最後まで楽しむことができた。
こうした環境は、やはり限りなく気負うことなく、日常に近い感覚で、家の中では味わえない音楽体験をできる場としての環境づくりに他ならないだろう。ホールの隣には芝生の広場や水浴びができる噴水もあったが、子連れが外で遊んでいる中でも、ホールから音楽が聴こえてきて踊っている様子が見られた。
ライブハウスやフェス、コンサートホールではそれぞれ、音楽好きが音楽のために何かを犠牲にしている面は少なからずある。それは時間であったり、体力であったり、他の人との過ごし方であったり様々である。『FRUEZINHO』はそこを極限までなくした自由さが担保されていた。そうした中で耳にする滅多にできない音楽体験は、誰にとっても特別なものだったのではないか。これまでになかった新たな音楽体験の選択肢として、唯一無二の価値提供をしている本フェス、今後どのような場に育っていくのか、次回以降の開催にもぜひとも足を運びたい。
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後ろ向きな音楽、胡散臭いメガネ、あまり役に立たない文章を愛でています。旅の目的地は、何もないけれど何かが起こりそうな場所。
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