【作家センセーショナル】第4回:河合正太郎
ご無沙汰しました。いかがお過ごしでしょうか。このあいだやっと夏が終わったのに、空気もかなり冷え込んで秋の終わりがゆっくり近づいてくる。時間の流れの早さを最近よく感じます。
僕が身近な人と向き合おうと決めてから、ピックアップしてゆく作業の仲で絶対外せないなと思ったのが河合正太郎さんだ。公私ともにお世話になっている先輩なのだが、いろんなタイミングの重なり合いで、今、その時になったように思う。
河合 正太郎 Shotaro Kawai
1992年 石川県生まれ
2015年 京都市立芸術大学美術学部美術科 日本画専攻
[2015年]
・「片隅でまだ乾かない」 / cumono gallery(京都)
・河合正太郎・鎮守厚介二人展「Death in the Making/Making in the Death」 / 京都市立芸術大学 小ギャラリー
[2014年]
・「メイド・イン・クツカケ art walk in geisai」 / 京都市立芸術大学構内
[2013年]
・「グループ実験”あの人”」 / アートギャラリー北野 (京都)
エキゾッチック (というよりも柄物が好き。取材に伺った日は柄シャツ柄パン柄シューズだった) な大男という風貌で、不思議な魅力を持っている。意外とお喋り好きなのも素敵なギャップだ。一度話し始めると熱く厚く、語りを絶やす事がない。
正太郎さんの絵は日本画特有のマチエールか、はたまたもの悲しいモチーフの肩にそっと手をかけてやりたくなる所以か、触れてみたいという欲求に駆られる。これはなんだか僕が中学生の頃、沖縄県に修学旅行に行った時に襲われた感覚に似ている。中学生で沖縄、といえば平和学習は欠かせないものだった。防空壕として使われていた鍾乳洞でつらら石を見た時、この洞窟の壁のでこぼこひとつひとつに手を重ね合わせた。手から伝わるひんやりした感覚は、気持ちいいような、鋭く突き放されているような。僕の知り得る歴史の外から今と昔を繋げてくれる。
熱さと冷たさを同時に秘めているような正太郎さんの画風はそこに通じるものがある。
今回の個展は今まで取り組んできた具象としての「人」ではなく、大きなくくりとしての「人」の営み・精神性に目を向ける。それを表す最たる物として原始美術に繋がりを見出していた。作品としてではなく当時の生活の記録として生み出された、洞窟壁画だ。当時の未来、つまりは現在に残る過去の痕跡は、生み出した本人達が不在でも感じ取る事ができる。長い時間の経過を経て、風化・劣化するそれらは人の手では出しえない風合いだ。その感覚を絵の中で追い求める。昔から、彼の興味のアンテナは「終わっていくもの」によくむかっていた。絶滅していく恐竜、ブームの過ぎ去るロックバンド、折れて枯れていく木の枝。どこからか見つけ出してきた、錆び付いた何かのような、その質感を自分の絵で表現したい。小さい頃から正義の味方より悪者が好きなところがあった。最後は負けてしまうのも含めて、そこにロマンを感じていた。
上手く説明できずにいたその感情を、今回の展示のキュレーターである本田耕人氏 (こちらも僕と正太郎さんの先輩にあたるのだが) に制作メモを見て貰いながら探り、本田さんの提案もふまえ、まるで壁画調査のような展示形態をとったのだった。これがなんとも面白い。入り口で懐中電灯を受け取り、薄暗いギャラリーの中を洞窟探検のように進んでいく。二階の奥には大きな天井画が待ちかまえていて、さながら掘り起こされた遺跡に遭遇したかのような体験が出来る。心がワクワクするようなこの展示形態とは裏腹に、作品と向き合える密度は高い。否応なしでも手に取ったライトで合わせられる自分の焦点が可視化されることで、作品を見る自分とも向き合う事になる。
「終わっていくものが好き」
そんなパーソナルな部分に今回の展示を設定した意図を感じる。ギャラリー内を探索する様子は、さながら正太郎さんが理由を探る姿をなぞるようだ。
以前から彼は天井画をやりたいという話をしてくれていた。「今回の出来はどうですか」と問うと、まだもっとやりたい事があるんだと話してくれる。理想の終着地点は、もう天井を有す建物までも造ってしまうことなのだと。ラムセス二世のアブシンベル宮殿のように壮大な、己の主張を後世に残る形として自分の手から生み出されたもので支配された空間を、地球上のどこかに一カ所でも良いから造り出す事が夢なのだという。それは無謀で浅はかで、愚かな願望かもしれないと彼は語る。それはエゴで、後から未来で痕跡を感じる人達はそんな風に思わない。感動したとしても、その気持ちを知ったのならがっかりするだろう、と。でもそんな、埋もれていくけど存在感を放ち、幼い河合少年の心を動かしたような”痕跡”。最後の最後はそんな消えていく物に自分もなりたいのだと、静かに熱く、語ってくれた。
元々父親譲りなのか、自然物より人工物の方が好きだったという。自然の荘厳さは感じている上で、それでも勝てるはずがない自然物に近い表現を人工的な存在として自分の手で表現したい。それが彼が絵を描く意義なのだ。始まりは子供心に誰かに絵を褒められるのが嬉しかったからなのかもしれない。それは大前提として今も決してないわけではない。だがしかしそれだけではなく、自分以外の存在の中に自分の描き出した物が残るという”痕跡”を残したいのだ。いつか自分が”消えていく物”になる為に、痕跡を至る所に残す。”消えていく物”は誰かの心に跡を残して、ようやく終わる事ができるのだ。でないと誰の中にも残らなかった物は、初めからいなかったことと同じだよな、と最後に正太郎さんは言葉にしたのだった。
これは無謀で浅はかで、そして愚かしい事だろうか。僕はそうは思わない。幼い頃の河合少年がラムセス二世に覚えた感動は、今もこうして彼を突き動かす原動力となっている。正太郎さんの作品もまた後世にきっと、第二第三、その後も続く、夢見る少年少女達を必ず生み出してくれるだろう。
河合正太郎 個展 『巌窟 / 3975』
【会期】
2015年10月20日(火)~10月31日(土)
【開館時間】
17時~22時(夕方〜夜間のみの展示となります)
【会場】
Antenna Media
〒600-8059 京都府 京都市下京区 麩屋町通 五条上る 下鱗形町 563 Antenna Media
会場アクセス|京阪「清水五条駅」3番出口より徒歩4分
地下鉄烏丸線「五条駅」1番出口より徒歩8分
JR「京都駅」中央口より徒歩25分 ※P無し:近隣にコインパーキングがございます。
【問い合わせ先】
gankutsu3975@gmail.com
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京都市立芸大総合芸術学科総合芸術学科二回生。いまを生きております。
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人を繋げるものに興味をもって、研究をし、たまに文と絵をかき、遊んでもらってます。