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ワークショップ「視覚に障害のある人とめぐるKYOTOGRAPHIE」- 継ぎ目につまずき、言葉を重ねる対話型鑑賞

目の見えない人と目の見える人が一緒になって、対話型鑑賞という方法でマベル・ポブレット「WHERE OCEANS MEET」を観て周るワークショップに参加した。そこでの出来事を通して考えたくなったのは、意図が伝わらない対話について。「継ぎ目」を軸にワークショップを振り返ってわかったのは、対話型鑑賞が、目の見える人が優先されている社会の構造を崩す糸口になり得るかもしれないということ。

ART 2023.07.27 Written By 佐藤遥

対等な関係?

京都市内を舞台にした国際的な写真祭、KYOTOGRAPHIE。そのプログラムの一つとして5月9日(火)に開催された「視覚に障害のある人とめぐるKYOTOGRAPHIE」というワークショップに参加した。内容は、目の見えない人と目の見える人からなるグループで、作品について対話を重ねながらマベル・ポブレット「WHERE OCEANS MEET」を鑑賞するというもの。こういった鑑賞の仕方は対話型鑑賞と呼ばれるもので、知識や公式の情報を頼りにするのではなく、作品を観て考えたことや感じたことを話しながら鑑賞を深めていく方法だ。

 

ワークショップの講師は、30年以上にわたってアーティスト活動を展開し、2020年には視覚以外の感覚、特に触覚を中心とした作品を展示する〈アトリエみつしま〉を立ち上げた光島貴之氏と、2000年代前半から対話による美術鑑賞会や作品制作のワークショップに参加し、現在は対話型鑑賞ナビゲーターとして活動している山川秀樹氏。光島貴之氏と山川秀樹氏は幼い頃に失明している。参加者は全体で20人程度で、〈アトリエみつしま〉でこのワークショップを知って参加していたKさんも目が見えない。わたしが割り振られたのはKさんとスタッフの方1人と一緒の7人のグループだった。

 

まずオリエンテーションのために〈京都文化博物館〉の中庭に集合した。そのときに少し驚いたのが、Kさんが「ここって外ですか?」と聞いていたことと、自己紹介のときにスタッフの方が「次Kさんです」と伝えていたこと。わたしは目の見えない人と接するのが初めてで、目の見えない人が他人の言葉で周囲の状況を確かめて把握する様子を初めて見たからだと思う。目が見えない人には目が見えない人の日常があるという話を聞いていたし、その話には呆れも矜持も含まれていると思っていたし、目の見える自分の日常と比べる無責任さも感じていたけれど、そういった事前に知っていたことや考えていたことを超えて、あまりにも不便じゃないだろうかと思った。周囲の状況を把握するために他人の言葉に頼ったり、場合によってはそれを信じるしかないなんて。

 

でもよくよく考えたら、わたしだって道に迷って自分がいる場所を自力では正しく把握できないことがあるし、先入観なしに他人のことを捉えるのは難しいし、知らないことを教わるときは他人の言葉を一旦は信じないといけない。だから誰にとっても、周囲の状況はもちろんなんでも正しく把握することは難しいし、みんな他人の言葉を意識せずとも信じて過ごしているのかもしれない……ということでいいんだろうか?と考えていたら光島さんの話が始まった。

 

光島さんは次のようなことを話していた。一つめは静かに観ないで話しながら観ましょうということ。二つめは目が見えない人は目が見える人のメガネになりましょうということ。そして三つめはアートや美術に正解はないということ。二つめの言葉は、目の見えない人は質問を通して目の見える人の視点を増やし、作品をよりよく理解するための手助けをしましょうという意味なのだが、その言葉を聞いてどうしたらいいのかわからなくなってしまった。もちろん目の見える人が話す言葉が増えるほど、目の見えない人にとっても知り得ることが増えておもしろく鑑賞できるわけだけれど、それだとまるで目の見えない人が目の見える人のためにこの場にいるみたいだと思ったから。

対話が導く先にあるもの

館内に入り、同じグループの参加者で順にKさんの手引きをしながら展示を観て話して周った。マベル・ポブレットの作品には、厚みが0.1〜0.2mmほどのプラスチックの板に写真を印刷し3〜5センチ角にカットして、手裏剣もしくは星のような形に折った立体的なパーツを再度元の写真と同じように、あるいはごちゃ混ぜに、一定の間隔で並べたものが多かった。簡単に言えば写真をカットして形状を変えて再構築した作品が多かった。写真は海や水にまつわるもので会場はいろんな青に包まれていた。キューバ出身のマベル・ポブレットは、海は人や国を遠ざけるものであり結びつけるものでもあると考えているらしい。とくに難民や移民にとっては大きな希望であるとも。

 

でもこれはワークショップを振り返ったからできる説明で、最初は作品の前でそれぞれ思ったことをぽろぽろと話すところから始まった。「これ高さ何メートルくらいなんですかね?」、「3、4メートルくらいかな」、「上からすだれ状に写真が連なっています」など。Kさんは「もしかして1000本くらい?」、「それってどういうことですか?」、「じゃあ下のほうは海中ですか?」と次々に質問していた。

 

作品を観進めていくと、大きさ、配置、材質、色、形状など視覚で簡単に捉えることができる要素を注意深く観察したことがいままでほとんどなかったと気がついた。印象的だったのは「ephemeral」という作品を鑑賞しているときのこと。横にあった鏡について話しているとKさんが「この鏡はなんでこの角度なんですか?」と尋ねた。ここで作品についての説明を加えると、プラスチックのパーツと壁はまっすぐな針金で繋がっているので、針金の長さによって層状に見える部分がある。みんな数秒間黙って答えに悩んでしまったけれど、その理由を考えながら会話を積み重ねていった結果、作品全体の奥行きと、パーツそのものや層状になっている部分の立体感を見せるためではないかという結論になった。その結論から、最後にはどのパーツも壁から離れて全て崩れ落ちてしまいそうだと感想を話す人がいて、それは作品名の「ephemeral」、つまり「一時的/儚い」という意味ともリンクしていた。会場の構成について注意深く考えることが作品の感想や解釈に影響すると感じたのは初めてだった。

 

でも、こういった経験以外に普段と違うのは、作品を集中して詳細に観察していたこととその場で話をしていたことくらいで、作品の特徴をうまく伝えられず少しへこんでしまうときもあったけれどKさんやほかの参加者の方との会話自体がとても楽しかったし、やっていること自体はいつものように一緒に展示を観た人と会場を出てから話すのと、実はあまり変わらないなとも思ったのだった。

 

最後に参加者全員でワークショップを振り返る時間があった。そこで特に興味深かったのは、色の伝え方について韓国では「辛そうな赤」など視覚ではない感覚でディテールを表現するという話だった。ほかにも様々な話題が挙がったなかで、引っかかっていることが一つある。それは、先の「ephemeral」の感想を発展させた解釈に対して、学芸員さんが「もちろん正解はないんですけど、まさに作家が考えていると言っていたことで、それが伝わって本人もうれしいんじゃないかと思います」と話していたこと。なんだかその場の雰囲気もその解釈をほめるようなものだった。光島さんも学芸員さんも正解はないと言っていたけれど、その話や雰囲気からなんだか正解みたいなものがある気がしたし、その正解に近づくことが良いことみたいだなと思った。

 

考えが伝わることや、作品に込めた思いが伝わることをはじめとして、なにかしら意図が伝わることが正解だったりより良いことだったりするならば、そうではない対話は正解でも良いことでもないのだろうかと考えたくなった。

シームレスな設計と継ぎ目

京都にいる間に『サイボーグになる』という本を買った。生活に補聴器を必要としているキム・チョヨプ氏と車椅子に乗って生活しているキム・ウォニョン氏が、サイボーグという象徴を通して経験やアイデンティティを振り返り、障害に関する科学技術を複数の面から検討するという内容だ。その中に「継ぎ目(シーム)」と「シームレス」についての章がある。たとえば、自動車にカジノ、身近なところだとQRコード決済、動画サイト、SNS、周りを見ればあらゆることがテクノロジーを提供する企業によってシームレスになっている。QRコード決済のほうが現金よりも支払いまでに必要な動作が少ないからか支出が増えるらしいし、動画サイトやSNSは途切れることなく次々とコンテンツを供給するからわたしたちは際限なく見続けてしまう。

 

つまり、どんどん継ぎ目がなくなって、手順が少なくなるように、考えなくていいようになってきている。考えなくていいということは、本当は自分で考えて判断しないといけないことまで自分より資本的にも社会的にも大きな存在に明け渡して、勝手に準備されたアルゴリズムや予測のままに生活が進んでいくということだ。でも、シームレスに供給され続けるコンテンツをぼーっと眺め、延々と画面をスクロールし続けているとき、もし充電が切れそうになったら、通信制限になったら、そういう継ぎ目ができたら、つまずいてその状況から抜け出せる。

 

ただし、そのシームレスな設計に適応できない人がどこかに必ず存在するわけで、その多くは障害のある人である。そういった状況をこの本は、「障害者は、シームレススタイルの世界に絶えず『継ぎ目』をつくる存在だ。多くのことが自動化され、人間の介入を最小限に抑えるシステムができていくなか、いつも、そこに不備があると知らせてくれるのが障害者だ」、「滑らかに設計された世界のどこかに、その世界に適応できない障害者が出現することは、退屈で意味のないYouTubeの画面の真ん中に現れる『バッテリー残量五%』という通知と同じように、『継ぎ目』をつくる」と書いていて、障害者たちはガタつきを甘んじて受け入れ、継ぎ目から予想もつかないところへと可能性を広げていく力があるとしている。

 

この文章を読んだとき、シームレスな設計に適応している人たちがそこから抜け出すために、適応できない障害者たちがいるわけではないはずなのに、シームレスな設計の「恩恵」を受けているのは適応している人たちであることを考えるとなんだかそういうことみたいで、光島さんの「目が見えない人は目が見える人のメガネになりましょう」という言葉を聞いたときと同じ気持ちになった。もちろん、障害など社会的には弱い身体を持つ人たちこそが、シームレスな社会で力を発揮できる存在なのかもしれないという希望を提示してもいる文章なのだけれど。

 

対話に当てはめると、なにかしら意図していることがすんなり伝わる対話はシームレスだと言えるだろう。その一方で、意図していることがなかなか伝わらない対話は継ぎ目ばかりでガタガタしたものだと言える。そうであるなら、このワークショップでうまく伝えられないこともあったわたしとKさんの対話は、わたしにとって自分の予想通りに進む物事に思わぬ継ぎ目をつくって別のところに連れていってくれるような、意図が伝わる対話とは別の正解であり、別の良さがある対話だったということになるだろう。

そこにある継ぎ目をないことにしない

そもそも日常生活におけるあれこれは目の見える人のほうが優先されている。その構造がそのまま美術鑑賞にも反映されているから機会も不平等だ。このワークショップはわたしにとっては普段展示に足を運ぶなかで興味を持ったものの一つだったけれど、Kさんにとっては数少ない貴重な美術鑑賞の機会であったように。それに、〈ヴァンジ彫刻庭園美術館〉のような触れる作品がある美術館はとても少なくて、基本的に目の見えない人がアートに触れるには目の見える人の言葉に頼らないといけなくなっている。だから、目の見えない人は目の見える人がシームレスとつまずきを行き来するためにその場にいるわけでは決してないのに、目の見えない人が目の見える人の「メガネになる」状況が成り立つのは、目の見える人のほうが優先されている構造があり、それに目の見える人が慣れきっているからだと言えるだろう。ただし、ここでわたしと同じような目の見える人が注意しないといけないのは、現在の構造を維持してこの状況をつくっているのは自分たちだと理解していることを、思考を止めて悦に浸る材料にしないことと、免罪符にしないことだ。

 

再度このワークショップに焦点を合わせると、今回の対話型鑑賞が先の本で検討しているような日常の生活と異なるのは、目の見えない人も目の見える人もお互いよく知らない作品を媒介して対話していることである。そうすること自体に、その場で立場が逆転するような即効性と強いパワーがあるわけではないけれど、多少なりとも目の見える人が優先されている度合いは弱くなっているように思う。よく知らない作品と向き合うこと自体ももちろんそうだし、わたしがうまく伝えられなかったように、答えに悩んで黙ってしまったように、作品について言葉にして伝えることは継ぎ目だらけでシームレスにはいかない。目の見えない人の生活にたくさんの継ぎ目があることはいつものことで、目の見える人が継ぎ目を感じることは「普段とは違う良い経験」と言えるだろうけど、継ぎ目につまずいた先にあるのが周りの人の言葉を道標に対話を重ねることであるならば、目の見えない人と目の見える人とが、目の見える人が優先されている構造の中で同じところに立つ糸口にはなっているんじゃないだろうか。つまり、今回のワークショップでの対話型鑑賞で行われていたのは、最終的な結論や解釈がなんであれ、作品を前にして対話を重ねる過程でその継ぎ目につまずいて、いろんなところに飛び乗りながら相手の言葉を頼りにして、時には信じて、そこに自分の言葉を重ねることで互いを理解していくという試みだったのだと思う。でも、わたしが書けるのは目の見える自分の経験と考えたことだから、いつかKさんにもワークショップの感想やその経験を通して考えたことを訊いてみたい。

 

わたしが何度か出来事を大味に捉えて、自分の普段と同じだと思うことにしようとしていたのは、たぶんつまずく継ぎ目がないことにしたほうが考えることが少なくて楽だからだ。自分にとてもがっかりするけれど。だから対等な関係でいるには、まずそこにある継ぎ目をないことにしないこと、シームレスなのであればそれは誰にとってのシームレスなのかをしっかり見つめることが必要なんだと思う。ちなみにヒュー・ハーは障害のない世界を目指すと言ったけれど、そもそも障害は「健常者」に最適化された社会がつくっているのだから、それだって「健常者」にとっての継ぎ目をなくすことにほかならない気がする。

 

マベル・ポブレットの作品には段差や継ぎ目がたくさんある。そこに流れているのは、多くの生物がすみ、わたしたちに恵みを与え、難民が沈み、津波で人を飲み込み、わたしたちがその環境を破壊している、漂白も消毒もされていない海の水だ。このワークショップでわたしたちが話し合いながら見つめていたのは、この継ぎ目だったのかもしれない。

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