
インドネシアの伝統芸能を、日本で生業にする―ナナンと西田有里に聞く、ワヤン・クリと生活とお金
インドネシアの伝統芸能を生業として、現代の日本社会で生きていくとはどういうことだろう?伝統影絵芝居ワヤン・クリのダラン(人形遣い)であるナナンの芸能人生を紐解くと見えてくる、伝統と現代のシームレスな関係。公私共にパートナーであるガムラン奏者・西田有里の視点も交えたこのインタビューは、「伝統」のイメージをアップデートする。誰もが生きるうえで切っても切り離せないお金のことも、語ってもらった。
伝統から創作まで、幅広いワヤン・クリのレパートリーを持つダラン(人形遣い)のナナン・アナント・ウィチャクソノ(以下、ナナン)。彼は10代の頃から故郷のジョグジャカルタでダランとしてキャリアを積み、今年40歳。すでに四半世紀のキャリアを持つ。
西田有里は、国立芸術大学ジョグジャカルタ校で学んだガムラン奏者だ。インドネシアの伝統音楽や芸能を現地で実践を通じて学び、帰国後はガムラン演奏家として、またインドネシア語と日本語の翻訳・通訳者としても活躍している。
二人はジョグジャカルタで出会い、2012年に結婚。ワヤン・クリやガムランの本場ではない大阪で、ワヤン・クリやそれにまつわる活動をして暮らしている。筆者は数年前から二人を知っているが、「本場インドネシアの方が活躍の場があって、生業にしやすいのでは?」と、疑問に思っていた。なぜなら、「文楽人形遣いが、ジョグジャカルタで、文楽をやって生きています」なんて、聞いたことがないからだ。それに、インドネシアの村では、ワヤン・クリ一座を呼んで上演してもらう習慣が今も残っており盛んだと聞く。しかしナナンと西田は、どうも「本場ではない」日本での活動を心底楽しんでいる。
今回のインタビューではまず、ナナンのちょっと変わった芸能歴を紐解く。そしてインドネシアの伝統芸能と生活の距離やお金について、少し生々しいことも聞かせてもらった。
本編に進む前に、まず、いくつかの言葉を解説しておく。
✋️ジョグジャカルタ
ジャワ島中央部に位置する特別州。かつてはマタラム王国の王都として栄えた。文化芸術(伝統、現代分野共に)が豊かな街として知られ、古都とも呼ばれる。ナナンの故郷。
✋️ワヤン・クリ
インドネシアの影絵人形芝居。地域で特色が異なる。水牛の皮を彫刻して彩色した平面の人形を、白い幕の前で一人のダランが操る。伴奏はガムラン隊が生演奏し、夜通し上演されることも多い(7〜8時間に及ぶ場合も)。娯楽のための上演もあれば、儀式としての上演もある。
✋️ダラン
ワヤン・クリの人形遣いで、ストーリーテラー。登場する全ての人形を操りながら全ての台詞とナレーションを語り、うたい、上演をとりしきる。アドリブで時事ネタや笑いも取り入れ、観客を飽きさせないエンターテイナー。
※ナナンの日本語への逐次通訳は西田有里による。
ダラン家系ではない家に生まれて
インドネシアでも、伝統芸能は家系で継いでいく場合が多いと聞きます。ナナンも、家族の影響でダランになろうと思ったのでしょうか?
実は、うちの両親はまったく芸能に関わってません。代々家系がダランだという人も多いですが、私はそうではないんです。でも、曾祖父母の代にさかのぼると、一族全員が芸能を生業にしていたそうです。ワヤン・クリではなく、クトプラという旅芝居一座のようなものを一族でやっていたと聞いてます。それが、どうして両親の代で途切れたかというと、インドネシアは1950〜1970年代、政治も経済も不安定になりました。その頃「もう芸能はやめよう、公務員や一般人として生きる方が幸せだ」と一族が決断して、足を洗ったそうです。
ナナンは2歳の頃から大伯父にあたるルジャールさんのもとで育てられた。一族では最後の旅芸人だったルジャールさんは、ジョグジャカルタに落ち着いてからはワヤン人形作家(※1)として生き、2017年に79歳で逝去した。ルジャールさんのことをナナンは「おじいちゃん」と呼ぶ。
※1 ワヤン・クリに登場する人形は、水牛の皮に彫り上げられ、彩色を施す。ダランが自ら作ることも多い。伝統的な型もあれば、斬新でまったく新しいデザインで創作されることも。
両親が幼い私を、何度かおじいちゃんのもとに預けることがあったそうです。幼い私は体調を崩しても、おじいちゃんのもとではなぜか元気になった。骨折した時も、おじいちゃんのところに預けられると、良くなってしまったそうです。「この子はなぜかルジャールのもとでは調子がいいぞ」というわけで、2歳からおじいちゃんのもとで暮らすことになりました。家のそこらじゅうにワヤン人形があったので、ワヤン人形がオモチャだったんです。
でもナナンとご両親は、今も関係はいいんですよね?
インドネシアでは家族や親戚が近くに住んでいて、子どもも多く家族が大きいですし、みんなで子どもを育てるというのが普通です。両親とも関係がいいですし、これは悲しい話ではないですよ。インドネシアではよくある話です。
ルジャールさんのもとで暮らすようになったナナンは、3歳で初めてワヤン・クリを鑑賞。そして同じ年に、伝説的なダラン、マンタップ・スダルソノさんに出会い、ダランを志す。
私が3歳の頃、おじいちゃんは、マンタップさんのために新作の武器(※2)を斬新なデザインで作りました。完成した時、おじいちゃんは私をマンタップさんの上演に連れて行き、その新作武器を上演中のマンタップさんに手渡すよう指示しました。いざマンタップさんに手渡すと、マンタップさんはそれをクルクルクルッと回して登場させたんです。それがとてもかっこよくて、驚きました。上演後、マンタップさんに「僕もやりたいです、教えてください」とお願いしたら、「ダランになる勉強をしなさい」と言ってくれました。それで、ダランを目指すことにしたんです。
※2 ワヤン・クリの定番である「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」には戦いのシーンも多く、矢や剣などの武器も登場する。もちろん、武器も含めて全ての人形をダランが一人で操る。
ナナン流、ダランへの道
ダランを目指すようになってからは、師匠について学びましたか?
師弟関係を結んで修行したりはしていないですね。私の先生は、ビデオ、本、実際の上演を鑑賞する。この3つでした
え!?
多分、インドネシアでもかなり珍しいと思います。ルジャールおじいちゃんは新しいもの好きで、ビデオカメラをいち早く手に入れ、上演されるワヤン・クリを撮影してはテープで保管していました。それをナナンは観ていたらしいです。
でも、ナナンは伝統のワヤン・クリをすべて上演できますよね?あとダランは、普段会話では使わない古語も用いるはず。そういったものも、ビデオで学んだのでしょうか?
はい。ビデオと、あとおじいちゃんの持っていた本で勉強しました。国立芸術大学ジョグジャカルタ校のダラン科でもダランを学びましたが、教育機関に入るまでは、ビデオと本と、上演を観ること。そして、おじいちゃんのもとには各地からダランや芸術家が訪れてきますから、そういった人たちとディスカッションすることも大きな学びでした。
では、ダランとしてプロになったのはいつからでしょう?
ジョグジャカルタの伝統芸能の世界では、演奏家や舞踊家は、中高生の頃から人前で演じる機会がよくあって、それでお金をもらうことも普通です。それを、プロと呼ぶかどうかは、難しいですよね。私の場合は、12歳の頃、スハルト政権時代の国営テレビ局で、おじいちゃんが作っていたワヤン・カンチル(※3)を上演したのがダランとしての初仕事だったと思います。14〜15歳の頃には、中部ジャワの教会の神父さんに呼んでもらったのも覚えていますね。けれど実は、それよりもっと前、7歳ぐらいの頃から、テレビドラマの子役をしていたんですよ。今思うと、子役時代の方が売れてました。テレビドラマの出演料は高かったし、それで家も一軒建てました。
※3 ワヤン・クリの一種で、カンチルと呼ばれる鹿のような動物が主人公。子ども向け作品のようだが、カンチルが解いていくトンチは大人にも響くという。一時期は上演が途絶えていたが、ルジャールさんが復活させ、それをナナンが引き継いでいる。
すごい!ナナンは特殊な道を歩んできたんですね。一般的には、ダラン志望者はどんな道を歩むんでしょう?
やっぱり有名ダランの一座に入ることが多いですね。楽器演奏で下積みし、毎日有名ダランの技を側で見ながら盗んでいく。そして徐々に機会を与えてもらえるようになって、最後に独立するというパターンが多いです。今は出自に関係なく教育機関でダランを学ぶ人もいますが、儀礼で行われるワヤン・クリは、代々途切れずダランを継いできた家系の人でなければできない、というルールもあります。
伝統ワヤン・クリに、新しい創造を
伝統的な型だけではなく、斬新で創造的なワヤン人形を生み出していたルジャールさん。そのルジャールさんのもとには、伝統芸能をベースにしつつも新しい表現を取り入れているダランや芸能家が多く訪れていたという。ルジャールさんとその訪問者らの背中を幼少の頃から見ていたナナンは、ダランだけではなく、伝統舞踊も、楽器演奏も、そしてテレビドラマの子役もやってきた。いろんな芸能を子どもの頃から総合的に実践してきた器用なナナンだが、生業や身の立て方については、どのように考えていたのだろうか。
高校生の頃、どの道で生きていこうかと考えていました。ちょうどそのとき、今は亡きシギット・スカスマンさんと知り合って、衝撃を受けたんです。まったく新しいワヤン・クリをつくる人でした。一時期私はスカスマンさんの内弟子のようにご自宅に入り浸っていたこともあります。スカスマンさんは美術家で、ヨーロッパでアートを学んできた人です。伝統のワヤン・クリにはない舞台美術、照明、舞踊を取り入れたりして、総合芸術のように公演をつくる人でした。私もそういうことがしたい、と思いました。というのも、呼んでもらうのを待つだけというのはおもしろくないですから。インドネシアは、日本よりも伝統芸能が生活の中に溶け込んでいて、現在も田舎では村のお祭りにワヤン・クリ一座を呼んで上演させるから、呼ばれるのを待つという方法もあります。ですが、私は待つのではなく、スカスマンさんを見習って、新しい作品を創作して生きていきたいと考えました。
新しい表現と創作を模索し、待たずに攻めていけば、生業としても可能性が切り開けるんじゃないかと考えたナナン。だから、異国の大阪で生活しても、自身の伝統芸能を基礎とした創作活動には、なんら支障がないと考えたということだ。スカスマンさんはナナンに、「この先のワヤン文化の発展のために、海外を見なさい」と教えた。ナナンは今も、その教えをしっかり胸に刻み、さまざまな新作の創作やコラボレーションに挑戦している。演劇作家である篠田千明が演出した『Mayokage』では、アーティストのたかくらかずきが考案したワヤン人形を用いて上演し、ナナンがストーリーを創作。西田も物語の構成から劇伴まで重要な役割を果たしている。ナナンは他にも、ノイズ音楽と映像とワヤン・クリを組み合わせたグループCORONAでも活動中だ。
売れっ子は目指さない
ナナンは大阪に移ってからも度々ジョグジャカルタへ帰郷しているが、この十数年間のジョグジャカルタの「伝統芸能とお金」の関係については、批判的な視点をもっている。
そういえば、この十数年はジョグジャカルタ特別州に国家予算で特別文化予算が割かれていました(※4)。王宮を中心に、伝統芸能の振興と発信が盛んだったんです。
※4 2012年に施行された「ジョグジャカルタ特別区の特別性に関する共和国法」において、ジョグジャカルタの文化を育み発展させることが明文化され、国家予算も投じられた。
そう、王宮が中心となって伝統文化や伝統芸能をSNSで上手に発信していました。私が留学していた2000年代末に比べると、見違えるプロモーションでした。その特別文化予算のおかげで、伝統芸能の世界も潤っていたと聞きます。ただ2024年にプラボウォ大統領が誕生して、この先どうなるかは、ちょっと見通せないですね。
特別文化予算がつくのはいいこともありますが、伝統芸能に携わる人を甘やかす部分もあると思います。“ワガママ”(※日本語で)をしちゃうこともある。例えば、その文化予算のおかげで仕事もギャラも増えたとしたら、村での上演の今までのギャラ相場を「安い」と感じてしまうわけです。「こんな安い金額では行けません」って断っちゃった例もあるそうです。また、これまで予算を抑えつつも工夫してクリエイティブなワヤン・クリを制作していたチームにお金が安定的に入ると、怠けて工夫をしなくなっちゃったり。新しいことをやらなくても、お金が儲かるようになっちゃうわけですからね。こういったことは、国家の特別文化予算だけの話ではありません。売れっ子ダランにも、同じことが言えるでしょう。売れるまでは「よりおもしろいことを」と努力して工夫するわけですが、一度売れてファンがつくと、お客さんはダランの名前だけで集まるようになるし、みんな「有名ダランだ!」と有り難がってくれるわけでしょう。そんなダランは忙しくなって時間もなくなる。すると、ますますクリエイティブな工夫をしなくなっていく……。
つまりナナンは、売れっ子は目指さないと。
目指しません。小さい頃から、自分で道を切り開く人たちをお手本にしてきましたから。おじいちゃんやマンタップさん、スカスマンさんなど、私が尊敬している人たちは、クリエイティブで新しいことをやる。けれども、伝統芸能のスピリットは決して忘れませんでした。そこが好きです。あと彼らは、「なぜこのような作品なのか?」と問われたら、しっかり説明することができたんです。コンセプトがしっかりありました。売れっ子ダランにはコンセプトを答えられない人もいますが、それはとても残念なことです。
お金ではないプロ同士のコミュニケーション
セルアウト=売れてしまえば勝ち。ナナンはその道をいかず、現在、大阪に暮らしながら、ワヤン・クリとは関係のないアルバイトも行う。友人の民泊の清掃をときどき手伝って、生活費を賄っているそうだ。
そういう状況も楽しむようにしています。別の仕事をやりながら生まれてくる考えや、経済的に苦しい時に出てくるアイディアもあって、それがワヤンに活かせますから。
最後に一つ聞かせてください。ダランは通常、金銭でギャラを受け取るものでしょうか。ギャラが金銭ではないもので成り立ったりすることは?
1950〜1960年代まで、儀礼のワヤン・クリの場合、ダランはギャラとしてお供え物の布や鶏を持って帰っていたと聞いています。今は、一般的にはお金でもらいますね。ただ、ダランが同業者である別のダランを呼んで上演依頼をする場合などは、「じゃあお礼はこのワヤン人形で」というふうにお金以外のお礼をすることもあります。
ダラン同士では、お金以外のやりとりが結構あるみたいですね。ちょうどこのあいだ、ソロ在住の70代ぐらいのダランを訪ねたんです。ご自身でワヤン人形も作る方で、素晴らしい綺麗なワヤン人形を作っておられました。ナナンは、そのワヤン人形が欲しいと思ったのですが、「いくらですか?」とは聞かないんですね。そういう場合は、何度か通います。何度か通いながら、「このワヤン人形は本当に素晴らしいですね〜」と話します。「欲しい」と直接言わずに、間接的に「譲っていただけないでしょうか」と伝えているんです。そして何度目かに伺った時、ついに、その70代のダランがふと、「金箔が欲しいな〜」と、おっしゃったんです。具体的な枚数や量は言われません。それで、ナナンと私はおそらく足りるだろうと思われる枚数の金箔を手に入れて、そのダランに贈りました。次にそのダランを訪ねると、私たちが贈った金箔を、ナナンが欲しいと思っていたワヤン人形に施す作業をしていました。そして「完成したら送るからね」と。
それはとても粋なやりとり! 具体的な金額ではなく、じっくりコミュニケーションを重ねることで交換が成立すると。
お金でいくらと値付けするようなやり方は、ダラン同士の関係では粋じゃないんだと思います。ダランのあいだでは、そういうコミュニケーションが今も多いですね。
表現活動を生業にするうえで大事なことは、国が違っても、伝統的でも現代的でも、ほとんど変わらない。二人の話を聞いていると、文楽人形遣いがジョグジャカルタで生きるのも可能な気がしてきた。
参考
1. 西田有里によるWeb連載「ジョグジャカルタ思い出し日記」(滔滔舎note)
2. 松本亮『ワヤンを楽しむ』(めこん、1994年)
3. 福岡まどか編『現代東南アジアにおけるラーマーヤナ演劇』(めこん、2022年)
You May Also Like
WRITER

-
ライター・編集者(バイトと兼業)。1983年生まれ、尼崎市出身。2015年から約5年間那覇市に暮らし、2020年より神戸市在住。アジアを読む文芸誌『オフショア』の編集・発行人。共編著書に『ファンキー中国 出会いから紡がれること』(灯光舎)。
OTHER POSTS

