
音楽におけるアマチュアリズムの重要性―沖縄の実例と、サイードによるプロ批判から考える
副業であるコンビニバイトを公表した沖縄の歌手。市役所職員を定年まで続けた著名歌手。世界の大舞台に挑むことへ興味を持たないDJや音楽家――。サイードが知識人に求めたアマチュアリズムの姿勢とプロフェッショナリズムへの批判を補助線に、沖縄の実例から現代の音楽家のあり方を考える。
コンビニバイトが公言されるラジオ
かつて住んでいた沖縄のラジオ番組を、radikoエリアフリーで神戸から聴くのが日課になっている。沖縄の二大民謡ラジオ番組である『民謡で今日拝なびら』(RBCiラジオ)と『民謡の花束』(ラジオ沖縄)は、特に欠かさず聴いている。
2024年のある日、『民謡の花束』を聴いていて驚いたことがあった。週一回のこの番組のパーソナリティを務めているのは、著名な民謡歌手の山川まゆみなのだが、「ファミマでバイトしてます」と明るく公言しはじめたのだ。
とはいえ読者が沖縄の民謡に詳しくなければ、この驚きが正しく伝わらないかもしれない。まず、山川まゆみを私が「著名」と判断するのは、以下のような彼女の来歴による。
6歳の頃から歌三線を始めた山川は、高校生だった1992年、”ユイユイ”という曲で全国デビューしている。作曲は、著名な民謡歌手でネーネーズのプロデューサーでもある知名定男。誰もが知る全国ネットのテレビ番組『ひらけ!ポンキッキ』で”ユイユイ”のビデオクリップが放送され、山川まゆみも登場した。70年代後半から80年代前半に生まれた人なら、この歌を覚えているのではないだろうか。時代はりんけんバンド、BEGIN、ネーネーズ等のCD発売やメジャーデビューが相次ぎ、90年代“沖縄ブーム”の幕開けの頃だった。
動画は『ひらけ!ポンキッキ』で放送された大和口(日本語)バージョンだが、この曲にはうちなーぐちバージョンもある。
“ユイユイ”のヒット以降、山川は沖縄県立芸術大学で琉球古典音楽を学んだ。卒業後は、ゆいゆいシスターズのリーダーとして、あるいはソロの歌手・山川まゆみとして活動を続けて今に至る。彼女は琉球民謡音楽協会が認める師範でもあり、若手や子ども達に歌三線を教える研究会も主宰、さらには子どもたちによる民謡グループ「島うた少女テン」もプロデュースしている。沖縄民謡界に知見がなくとも、箔付きの実力者であることは自明だろう。
ここで、私の驚きの原因を整理したい。一つは、「山川のような著名でキャリアある歌手であれば、音楽だけで食べていると思い込んでいた」ということである。つまり、「音楽を人前で演奏したり教えたりすることには金銭授受が発生すべきで、それが職業になる」と認識していたということになる(それが当たり前かどうかは一旦置く)。もう一つ重要なのは、「音楽家や歌手が、支援者や聴衆に対して副業やバイトを公表するのははばかられる」と考えていたということ。これはなかなか厄介な世間の共通認識であるはずだ。音楽家や歌手という営みを疑いもなく金銭および職業と結びつけてしまうのは資本主義の賜物だとしても、どうして音楽家や歌手は「専業」で「その道一筋」が奨励されているのか。
山川は『民謡の花束』の中で、明るく元気ないつもの調子で、ファミマでのバイト話をおおらかに話す。コロナ禍に歌の仕事ができなくなってしまったのがバイトを始めたきっかけだったが、接客業であるコンビニの仕事は面白く、また体も動かすので、非常に充実しているという。歌の仕事も戻ってきた今、バイトは辞めてもいいのだが、楽しいから今後も続けていきたい、と。「お店に迷惑がかかるといけないから」ということで、さすがに県内のどのファミマかは公表していないが、リスナーからのリクエストに添えられたメッセージには「こないだファミマでまゆみさんから買ったファミチキおいしかったです」といったものもある。全国津々浦々にファンを持つ山川まゆみだが、『民謡の花束』を聴いていると、彼女の語る些細なエピソードから「生活者」としての顔がつぶさに見えてくる。私はまだファミマに立つ山川を見たことがないが、民謡歌手としての山川の笑顔と、コンビニに立つ山川の笑顔は、おそらく何も差異がない。
自らの意志で専業にならなかった歌手
結論はもう見えている。民謡歌手に限らず、ポップスの音楽家でもバンドでもDJでも、あるいはライターや編集者であっても、他に生業を持っていることはざらにあるし、「専業」や「その道一筋」であることがその芸や仕事の質を保証するわけではない。また、腕のある歌手や音楽家でも、その営みを金銭に換えて職業化したいという人と、職業にしない人とがいる。少し落ち着いて考えてみれば、沖縄の音楽界には、もっと前から例がある。
例えば、「専業にならなかった歌手」として現代の民謡界で有名なのは、八重山出身の大工哲弘だろう。ソウル・フラワー・ユニオンやジンタらムータとの共演、また『橋の下世界音楽祭 SOUL BEAT ASIA』への出演等で、民謡に明るくない音楽ファンにも知られる大工は、20代前半から日本の歌謡界において頭角を表した。1970年、読売テレビの番組「全日本歌謡選手権」に出場し8週連続トップで勝ち抜き、歌謡界を騒がせた(※1)。大工は歌手として専業で十分やっていけただろうが、それをせず、自らの意志で定年まで那覇市役所に勤めた。公務員であったため、ギャラは社会福祉協議会に寄付していたという(※2)。
若い頃の大工に影響を与えた人がいる。ルポライターの竹中労だ。竹中は、大工との出会いや付き合いを振り返りながら、大工にこのような思いを託しアドバイスを重ねたことを書いている。1970年代半ばの原稿である。
観光民謡ショーの氾濫する風潮の中で、アマチュア歌手としての道を、彼には歩んでほしかったのである
すくなくともその力強さ、素朴さ、生活感において、島うたの本然の姿に、大工哲弘は迫りえているのだ。技術をしのぎ情念をすらしのぐもの、それは生活者の感覚である
(竹中労『琉歌幻視行』(田畑書店)より)
民謡とは、生活者の総体である民衆が連綿と受け継ぎ育ててきたものである。民謡歌手たるもの、生活者であることをやめてしまえば民衆を代表できなくなり、その歌は民衆から遠く離れて形骸化し、空っぽになってしまう。大工哲弘は、まず生活者であることを選択し、生涯をかけて自身の歌を磨き続ける道を選んだ。
商品づくりをしない、職業にしない音楽家たち
では、民謡以外の音楽はどうか。民謡は生活と密接に関わってきた、でもポップスやロックやクラブ音楽には当てはまらない、やはり専業やその道一筋が一番だ、と考える人もいるだろう。それはそれで否定しない。だが、専業のほうが価値あるというのであれば、専業について少し考えておかなければならない。
専業やその道一筋でやっていくということは、音楽と金銭を価値交換することが絶対的に必要となる。今の資本主義経済のシステムでは、金がなくては人は食えないからだ。音楽を金銭へ換算するときのレートは、専業というプレッシャーに乗じてシビアになる。専業というスタイルを守り通すなら、金銭と交換できる価値のある音楽を作り、演奏し、そしてそれを金銭に交換し続けなければならない。巨額の富を既に築いていて金を稼がなくても食えるというなら別だが、市場経済の中でできるだけ多くの人に購買される商品音楽を作り演奏し続けなければ、人が生きていくだけの収入は得られない。割り切って、市場経済の中で消費を促す「音楽商品」を作り続けるなら、確かにその作り手や歌い手が生活者であるかどうかなんてどうでもいいだろう。ついには人が作る必要もなくなってくるかもしれない。また、そういった消費向けの商品づくりが前提ならば、「音楽に政治を持ち込むな」という態度もよく似合う。
そういえば、沖縄出身ではないがとある音楽家と話していた際、こんな意気込みを聞いたことがある。「私は音楽を仕事にはしないけど、“仕事”で音楽をやってる奴らには絶対負けないですから」。かつて2000年代に大きな国際フェスにも出演していたその友人は、音楽とはまったく関係のない肉体労働に就き、そのスキマで音楽活動を続けている。世間はそういうタイプの音楽家を「職業音楽家」と分けて「日曜音楽家」と言い表すかもしれないが、この人はおそらく労働時間以外の全てを音楽制作に投じている。日曜どころではないはずだ。音を聴けば果てしなく時間をかけていることが瞭然で、確かにこれはプロフェッショナルにはできない音楽だと思う。そこに発生する金銭報酬や費やせる時間を計算しなければならないプロフェッショナルなら、このように惜しみなく、時間と労力を徹底的に注ぎ込むことは難しい。ちなみにその意気込みを聞いたのは2010年代のことだった。2024年に再会し、当時の発言を覚えているか聞いてみたら、今もまったくその考えは変わっていないとのことだった。
那覇に住んでいた頃の私は、一つ失敗をやらかしている。沖縄音楽を広く世界に発信しようという長期的なプロジェクトに関わっていたときのこと。私は自分が称賛する沖縄のDJやバンドに、そのプロジェクトに参加してみませんかと積極的に声をかけていた。私は、自分が心の底から素晴らしいと思う音楽を世界に紹介したいという衝動に突き動かされていた。だが、私が声をかけた音楽家の多くは、あまり興味を持たなかった。当時はその理由がよくわからなかったのだが、あれからしばらく経ち、わかったことがある。彼らにとって音楽とは、週末に仲間たちと自分たちの地域で楽しむ生活の一部なのだ。だから、もしその音楽のクオリティや技術がたとえ世界レベルだったとしても、舞台を世界に移したいとは思っていない。もし、音楽を仕事にして世界を飛び回らないといけなくなったとしたら、自分の生活が壊れてしまう。評価を得ることはもちろんうれしいが、音楽を仕事にしようとはさらさら思っていない。
サイードは「プロ」を批判した
では、コンビニでバイトしたり市役所に勤める民謡歌手、あるいは「仕事にはしない」と宣言する日曜音楽家や、週末の小さなパーティーを楽しむ音楽家たちを、私たち聴衆は「アマチュアだ」とレッテルを貼って専業音楽家と区別するだろうか。実際のところ、そんなに極端な聴衆はおらず、にこやかに「プロもアマも関係ない」と認める人がほとんどだ。けれども本心では、プロかアマかと問われたら、プロであることにわずかに軍配を上げる人が多いだろう。なぜなら、プロフェッショナルという言葉が一般的には「良いもの」として捉えられているからだ。それがあたかも努力と誠実さの結晶であるかのように。
しかし、エドワード・W・サイードのもとでは、プロフェッショナル(専門家)は批判され、アマチュア主義こそ奨励される。プロとは、生活者であるのではなく、自分の生活を守るためにその仕事をこなす存在で、権威に奉仕する。サイードは、プロがたえず配慮していることをこのように描写する。
自分の売り込みに成功しているか、自分がとりわけ人から好感をもたれ、論争的でない人間、政治的に無色の人間、おまけに「客観的な」人間とみられているかどうか
(エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)より)
サイードは文学批評家として、またパレスチナ人の活動家として、西側諸国とアラブ世界の対立構造に対して公式見解や客観的意見しか述べられない知識人(ジャーナリストや学者や評論家など)を批判した。知識人の多くは、自分の専門家の座を守りたいがために、市場や権力や伝統が喜ぶ方へ進む。彼らは、専門家でプロフェッショナルである自分の立場を固めようとするうちに、権威ににじり寄り、独立性を失う(結果、また中東で戦争が起こる)。
これは、知識人だけでなく、世の中のあらゆるプロフェッショナリズムに応用が効く話だ。プロ音楽家やプロ音楽ライターにおいても、上記引用部分のような配慮に忙しい専門家は多いだろう。そしてサイードは、権威におもねることのない独立したアマチュアをこのように讃える(もちろんサイードはこれを実践してきた)。
アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。
(同上)
相反する態度として、沖縄で示唆的なのは、Awichだろう。彼女の目線の先には褒賞がある。「グラミーを獲る」が目標だと公言しており(※3)、彼女の最終目標は音楽を追求し愛好し続けることではない。だから彼女は、権威と利害関係を共にすることができるプロフェッショナルで専門家なのだ(※4)。もちろん、そのように生きる“プロ”音楽家の道もあっていい。
とはいえ、事実として、専業ではない音楽家なんて今の時代ざらにいる。あらためて書くまでもないことだ。問題は、聴衆の態度だろう。音楽家の副業にいちいち驚くのは、もはや時代遅れだ。「専業であってほしい」と一方的な夢をなすりつけ、「日曜音楽家」と揶揄するような言葉を生み出した聴衆にこそ、問題がある。私たち聴衆は、支持するその音楽家が副業やバイトを明かしたら、安心し、より愛するべきなのだ。それは、支持する音楽家が権威や利害に飲み込まれることを自ら拒否し、独立的なアマチュア主義でやっているということの一つの証左なのだから。
最近は音源やradikoだけで足りず、沖縄へ赴く度に、生で民謡が聴ける場所に足を運んでいる。そこで聴く明らかに専業でない歌手の歌には、えも言われぬ迫力がある。竹中労が「生活者の感覚」と表したのは、このことだろう。いつか、山川まゆみの歌もじっくり聴く機会に恵まれればと思う。彼女のバイト、生活、人生、全てが滲む歌を、堪能したい。
参考
※1
ちなみに9週目に大工が落とされたのは沖縄差別が原因だった。竹中労の『琉歌幻視行』によると、「わけのわからぬ沖縄のうたで視聴率が低下する」「コトバがわからない」と、スポンサーや審査員がクレームをつけたという。大工は2023年のインタビューで、当時のことを「屈辱的な言葉」「私自身の唄に対する批判ならまだ納得しますが、沖縄伝統楽器文化に対する批判にとても腹が立ちました」と語っている。
「【八重山の唄者】第14回 大工 哲弘」(音楽民族+)
※2
出典は※1のインタビュー記事と同じ。
※3
2023年のNumero TOKYOでのインタビューなどによる。他にも、多数のインタビューや自身のSNSで「グラミーを獲る」ことを掲げている。
※4
Awichは2024年から一般財団法人沖縄観光コンベンションビューローのグローバルアンバサダーを務めており、2025年4月、大阪・関西万博の開会式に出演した。
一般社団法人沖縄観光コンベンションビューロー「沖縄グローバルアンバサダーAwichさんからのメッセージ」 (2025年5月15日公開)
実は沖縄と国際博覧会のあいだには、内国勧業博覧会での人類館事件や1975年の海洋博など、深い溝がある。ちなみに開会式でAwichが披露したのは「鳥刺舞」。これは日本全国にある芸能で、沖縄には大和から伝来したとされている。
You May Also Like
WRITER

-
ライター・編集者(バイトと兼業)。1983年生まれ、尼崎市出身。2015年から約5年間那覇市に暮らし、2020年より神戸市在住。アジアを読む文芸誌『オフショア』の編集・発行人。共編著書に『ファンキー中国 出会いから紡がれること』(灯光舎)。
OTHER POSTS
