
模写を通じて味わう現代の歌詞-第4回 お題:Mei Semones “Kurayami”
音楽をより深く楽しむために、歌詞を模写している人がいます(私、ANTENNAメンバー飯澤です)。「歌詞は曲を通して聴くもの」であることが前提ですが、模写を通してどのような体験を味わっているのでしょうか?音楽の聴き方を振り返りたくなるような、勉強とは違った模写の楽しみ方をみなさんにお届けする連載、第4回目です!
今回模写する曲:Mei Semones “Kurayami”
今回のお題は、Mei Semones(メイ・シモネス)が2025年12月に発表したシングル曲“Kurayami”。ミシガン州アナーバー出身。日本人の母を持ち、英語と日本語が入り混じる歌詞とバークリー音楽大学で学んだジャズを中心とする技巧的なギター演奏が話題を呼んでいます。
想像していたよりも、新しい視聴体験をした1曲となりました。曲の真意を深く捉えきれないからこその楽しみ方があり、日常でも同じだと感じました。「わからなければならない」なんてことはなく、わからなさがあることを許容できる方が、今の自分にとって丁度良さそうです。
アイキャッチデザイン:おっぺけりょう子
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新食感ならぬ新聴感
この連載を初めてから、普段は聴かないアーティストの曲に触れたくなった。その時の気分にあったプレイリストをSpotifyで選び、家事をしながら聴く時間が楽しい。知らない世界に触れると、視野が広がる感じがする。
まだまだ知らないアーティストはたくさんいらっしゃるものです。今回は、英語圏出身でありながら、日本語と英語を用いた歌詞を書くアーティスト、Mei Semones。「過去3組の日本出身アーティストが書く日本語詞とは違う読み解き方になると思います」と、この記事の担当編集者である峯さんからメッセージをいただいた。何がどのように違うのか、聴いて歌詞を読まなければわからない。気になりながら、早速視聴しました。
MVはこちらです。
冒頭「ピッタリ 似合うね」が日本語だったからか、日本の曲というイメージが広がり、親しみのある未知の世界にときめいた。何より、羊毛フェルトのぬいぐるみのような発音のやわらかさが気になって、歌詞の内容はちょこちょこわかるけれども、言葉の意味を追いかけずに、音として楽しんでしまいたい衝動に駆られた。たった数秒で、クールな淡いピンクと穏やかなブラウンを想起させるアンニュイさがかっこよくて、耳が釘付けになる。 音の展開と細やかな質感の変化にストーリーを感じ、映画のようなダイナミックさと繊細さに、繰り返し聴きたくなる。
その上で、バイオリンがこんなに前面に出ていることに歓喜した。昔からバイオリンを弾いているものの、私の狭く深くな音楽鑑賞スタイルでは、いわゆるロックバンドにバイオリン奏者がいるのを見たことがなかったのだ。切ないかわいさがあるけれど、時折耳に入る単語から、どうやら明るい曲ではなさそう。内省しているように聴こえる。メロディも内面の深い部分に潜り込んでいる感じがする。バンドは伴奏というより楽器の音が歌っているようだ。間奏部分は歌がある部分とは違う情景が広がる。ここも同じように愛おしい。一瞬たりとも聴き逃したくない。……とここまでは、曲を聴いて頭に思い浮かんだままの言葉をただ並べてみた。
日本語の音を使いながら英語圏のカルチャーを表現する
そして歌詞を模写してみる。「こんなに英語だったんだ!」とも「ここも日本語だったんだ!」とも、新鮮に感じられた。気になったのは、音と日本語の歌詞のシリアスさが結びつかなかった部分が散見した。例えば「地下室」「暗闇」「この遊び 僕たちは何をしているの」「危ないよ 危ないよ 危ないよって誰か言ってくれるの」の箇所。どうして地下室や暗闇に行くの?どんな遊びをしてたの?何がどう危ないの?疑問がたくさん出てくる。
模写が終わって歌詞を反芻する。冒頭はLet’sなのに、終盤はLetsなのはなぜなんだろう?という疑問から、英詞部分について検索しはじめると、英語と日本語で同じ意味の言葉でも、その言葉が持つ背景やカルチャーの違いがこんなにあるんだ!と痛感した。中でもどうやら「地下室」や「暗闇」、「Black water(深海、黒い水)」といった、この曲で使われている単語は、ゴス文化やダークロマンティシズムでは、繰り返し使われてきたメタファーであるそうだ。ゴス(Goth)文化は、1970年代後半のポストパンクから派生したサブカルチャー。暗く、陰鬱でありながら、美しさや儚さがある世界観を基調としている。ダークロマンティシズムは18世紀後半から19世紀にかけて欧米で栄えたロマン主義の分派で、人間の内面にある狂気、罪、悪、そして心理的な崩壊に焦点を当てた文学・芸術。音としてはゴスではなさそうなのだし、Mei Semones自身がこれらから影響を受けているかはわからない。
「地下室で遊ぼう(無意識・逸脱した遊び)」「暗闇に飛び降りる(自己破壊的な衝動に任せる)」「There’s a boy who hit his head and He couldn’t get up(精神的なトラウマになった少年の噂がある)」などの箇所は、依存性や破壊的な人間関係(自分の中にいる自分との関係性含む)について描写をしているという仮説を当てはめると、途端に歌詞が解釈しやすくなった。
僕(自分)とニコイチな君。ピアスをお揃いにするほど、一心同体な仲。すごく親密なのだが、お互いの精神面を傷つけかねないような沼にハマろうとしている。かつて、友達が同じ状況に陥り、沼から出られなくなったことを僕は知っている。沼にハマらないでただ遊んでいれば、子どものように無邪気な関係性でいられたの?沼にハマると危ないよと誰かが言ってくれたの?初めて君と喧嘩した。力は弱いが拳を挙げたら、君にヒット。嫌われてしまった……。君が私のことを気にかけてくれてたことに気付かなかった。仲直りのチャンスをくれたとしても、関係性は断ち切られるだろう。離れられないほど傷つけあった関係だけど、あなたが変わらないことも、自分が変われないことも、わかってる。だから、もうお別れ。お揃いのピアスをつけて、部屋に行こう。自己破壊的な衝動を眺めて。
改めて音を聴きながら歌詞を解釈していくと、映画のような展開だ。そして「僕」の心理描写に忠実なメロディであることにも気づいた。
「わからなければいけないような気がする」の呪縛を解いて、片鱗をまさぐる
一通り模写と解釈をし終えて、彼女が1曲丸ごと英詞にしていたら、曲の雰囲気が全然違ったかもしれないと思った。“Kurayami”の背景にあるカルチャーが英語圏のものであり、日常的に英詞に触れるリスナーは違和感なく曲を取り込めたかもしれない。しかし、この曲は一部日本語でも表現されるという、言わば「ギャップ」がある。またこれは私の感覚でしかないが、メロディが柔らかくて抑揚がゆるやかに感じるところは、英語より日本語の発音やイントネーションに近いように感じる。英語は抑揚が大きくてリズムがはっきりしているように感じるが、この曲ではそれほどでもない。ここもギャップなのではないか。
自分が知っている言語とネイティブほどは知らない言語での表現が掛け合わさっている。でも一方の言語の背景にあるカルチャーは知らない。これって日常だと、実はありふれていることなのかもしれない。
もう少し踏み込むと、音楽という言葉の幅が限られている表現に、親しみのある日本語と英語を用いていることで、その曲が前提としているカルチャーが見えづらくなる。よって、わからなさや、ギャップを味わう機会を得ている。
ここで、福祉の現場で働いているときのことを思い出した。その時は、発達障害の傾向のある子どもに行動療法をする仕事を福祉施設でしていた。この行動療法ではコミュニケーションをとりながら一緒に活動をして、社会生活での立ち振る舞いや考え方について実践しながら学ぶ機会を提供したり、発達特性に合わせた勉強のサポートをしていく。なぜか私は言語発達がゆっくりな方を担当させていただくことが多かった。いつも現場仕事は楽しいのだが、その人たちと関わっている時は、より一層楽しかった。日常生活でいかに言語に頼っているのかを思い知らされるからだ。
言葉を十分に使ってコミュニケーションをするとき、ちょっとしたニュアンスで「この方は、これについて知っていそうだな。好きそうだな」などと推測している。その方々と接しているとそれができない。断片的なことも多いが、発された言葉を読み解き、身振り手振り、表情を中心に情報をキャッチしていく。当然、何を伝えたいのか、わからないことも多い。ただ、それでいいのだ。福祉の仕事では、いかに信頼していただくかが大事になってくる。だから、まずは信頼関係を築く。そのために、わからなさはそのままに、相手のことを全力で知ろうとする。ここに私のときめきがあった。わからない上で、仮説を立てまくり検証し続ける。毎日の生活では、どれだけ相手の状況を理解することが求められているのかを痛感する。わからないことは悪なのだろうか。100%を理解できることなんてないのに(少なくとも、私はそう思っている)。
わからなさは怠惰ではなく、起こり得ることである。曖昧さが常にあって、コントロールできない何かをはらんでいる。それが仕事となると、知っていないといけない、情報収集しないといけない場面が多い気がする。わからなさがあるという前提を許容できたら、日々がもっと楽しくなるのではないかとも思う。
そう言いながら、私は歌詞について理解を深めるために模写をして解釈しているのだから、なんだか矛盾があるような気もするが。わからないから知ってみようとする、わからないといけないわけではない、もっと知れたらいいなという好奇心は持ち続ける、というスタンスが、今の私にとっては心地良い。
これまでの「模写を通じて味わう現代の歌詞」
この連載について
「歌詞の模写をするのが趣味です」と人に伝えると、だいたい「歌詞?」と聞き返されます。好きな曲を自分の身体に染み込ませたいと思い余って始めた模写ですが、多くは技術を体得したり、観察力を育成するなど学習や練習のためにする行為だと知って驚きました。まずは曲を聴いて音を楽しみ、歌詞を読んで味わったら、再び曲を流しながら歌詞を追って歌ったりする。そこからさらに私は歌詞の意味をあれこれ想像しながら模写をして、曲に乗った感情を追いかけていくのが好きなんです。
そうすることで初めてその音楽の作者の感性が垣間見え、深いところで繋がれた気になれたり、自分の身体に取り込まれて、肥やしになっているように感じます。
他者がいろんなことを感じながら生きている様子に希望を感じる私にとって、音楽からどこまで何を感じとることができるのだろう?そもそもこの曲を表現した人は何を思って紡ぎ出しているの?この連載は、「何の役にも立たない趣味」と自嘲しながら模写を続けてきた私自身に、何らかの役割や意味合いを見出してみようとする挑戦の記録でもあります。
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WRITER

- ライター
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東京出身・在住。身体と音と言葉に夢中なまま大人になりました。感覚の言語化にこだわりがあります。
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普段は「空ルート」という整体と、AIの対話体験開発をしています。趣味は音楽活動やご飯イベントの開催です。
