INTERVIEW

時間をかけて他人の言葉に身を委ねる「表現としての翻訳」とは – 藤井光インタビュー

作家の言葉を読者へ繋げる翻訳家。そこには、正確さ、機械的というイメージをもつ人もいるかもしれない。翻訳の創造性や翻訳家の思考に焦点を当てて魅力を伝えていく特集『言葉の力』の企画「#創る翻訳」のなかで、僕は文学翻訳が持つ表現としての側面について向き合ってみた。いままで翻訳は「表現」の一つだと捉えていたが、翻訳者自身がどう捉えているのか疑問を持ち、東京大学文学部准教授で翻訳家の藤井光さんにインタビューした。

BOOKS 2021.06.21 Written By Sleepyhead

文学翻訳は、小説とは違ってゼロから生み出す創作物ではない。しかし、オリジナルの作品から別の言語へ移し替えると確実に元の作品とは違う顔を持つことになる。つまり、翻訳者がクリエイティビティを発揮する場面があるということだ。ストーリーやキャラクターの性格などを原作に忠実に誤解のないように翻訳する実務的な側面もありながらも、歴史や文化背景が全く異なる言語で、従来の物語が持つ「面白さ」を表現する必要がある。そういった意味では文学翻訳には「表現」としての側面があるのではないか。

 

一口に表現と言ってもさまざまな種類がある。文学翻訳の「表現」とはなんだろうと考えた時、僕は「翻訳者が持つ個性を言葉で表現すること」だと想像し、翻訳をさまざまな角度から捉える藤井さんに表現としての文学翻訳について聞いてみたいと考えた。しかし、「翻訳はあくまで「他人」の言葉に身を委ねることなのだ」と語る藤井さんのお話を通じて、翻訳に対する勝手な先入観が取り除かれ、翻訳することの本質を垣間見ることができた、そんなインタビューだった。

翻訳は日本語には存在しなかった新しい物語を送り出す

「表現」をどの次元で捉えるかによるが、翻訳には「表現」としての側面があると藤井さんは語る。翻訳は日本語に存在しなかった物語を送り出し、読者がそれぞれに読み解くことで多様な解釈が生まれる。翻訳はその役割自体にも表現としての側面を含んでいるが、読者もその作品の表現の一旦を担っている。

 

「読者がいればいるほど、ある作品の受け止められ方は多様になるので、翻訳によって作品に新しい意味が生まれるというのも事実だろうなと思います。

 

一方で、「訳されなかったもの」が僕は気になって仕方がないという事情もあります。一つの作品が訳されたということは、無数にあるほかの作品は訳されなかったということですし、作品の文章にある訳文がつけられたということは、無数にあるほかの選択肢は捨てられたということです。あるいは、ある翻訳者が訳書を出したということの裏では、そのほかにも翻訳したい人が無数にいるわけで……。
 
そのうえで、表現行為という話に戻ると、翻訳にはいろんな「約束事」があって成立しているので、多少そこを工夫することで、翻訳における選択肢は多めにしておきたいという思いはあります。かつての僕は、女性の登場人物がしゃべっている時には、なんとなく女ことばを使って訳していたのですが、別にそうでなくてもよいという選択肢もありうるので、女ことばを使わない翻訳を試みてみたりとか。」

物語の文脈を理解しながら、言語的な制約の中で意味とニュアンスをできるだけ「そのまま」移植することは、常に制約に向かい合う行為と言えるだろう。そして、制約は捻り出される言葉の精度や重さを生み出す。翻訳が「表現」としての側面を持っているのであれば、それは訳者自身の個性が顕在化しているとも言えるのではないだろうか。限られた言葉の選択の幅から、訳者の感性で選び取られ構成された訳文には個性が出るはずだ。僕はその仮定も持った上で、藤井さんは自身の個性を訳文に出すのかを質問してみた。

 

「翻訳者の個性はなるだけ出さないようにしています。僕の個性が出るとすれば、何を訳すかという作品選びの時点で出ているので、それ以上は消えているべきかなと考えています。とはいえ、多少なりとも翻訳することに慣れてくると「癖」が出てくることは避けられないので、なかなか悩ましい問題ですが。」

 

文章自体になんらかの個性を出すのだろうか、と想像していたが真逆のスタンスで翻訳に向かい合っていることに驚かされた。むしろ作品選びにその個性が出ると語る藤井さんの作品を並べて眺めてみると、アメリカにおける移民文学や一癖あるマジックリアリズム的な作品が多いことに気がつく。一つ一つの作品の文章を見ているだけでは訳者の個性は見えづらい。しかし、訳書を出し続けることで作者自身のアイデンティティーが確立していくことがある。意外な視点だったが、藤井さん自身はどのように翻訳する作品を選ぶのだろうか。

 

「個人的な好みがほぼすべてです。個人的にはあまり好きな作品ではないけれど、出版する意義はありそうだからとか、売れそうだからという基準で引き受けると、おそらく翻訳の質が落ちてしまうと思うので、その物語にものすごく思い入れがある人が翻訳すべきだろうと思います。」

 

「個人的な好み」と語る藤井さんの言葉は説得力があり、確かに彼の作品のセレクションには一貫性が感じられる。暗い世界を限界まで突き詰めていって、絶望ぎりぎりのところでちょっと光が見えるかもしれないという雰囲気のある小説が好きだそうだ。さらに作品自体が持つ意義や他者からの期待よりは、訳者自身が作品自体に思い入れがあることが良い翻訳作品を生み出す大切な要素になる。良い翻訳作品を生み出すには、その作品の一番のファンであるべきなのだろう。

英語を母語としない作家の作品を選ぶに至った経緯

藤井さんの個人的な好みが反映された翻訳作品には「移民文学」が多い。移民文学や英語を母語としない作家の小説を中心に取り組むようになったきっかけについて聞いてみた。

 

「もともと僕は現代アメリカ小説を正確に読解して論文を書くための訓練を受けるなかで、翻訳することにも興味を持つようになったのですが、20代で取り組んでいた研究のなかに、ロサンゼルスという街と文学との関係というテーマがありました。スティーヴ・エリクソンなどの小説には、「歴史が意味を持たない、現在だけが存在している街だ」とよく書かれていて、実際その通りでもあるんですが、その一方で、街の成り立ちのなかでは移民の存在が欠かせないわけで、日系移民の歴史もその一部です。そうしたことを追いかけているうちに、メキシコからロサンゼルス郊外に移住したサルバドール・プラセンシアの『紙の民』という小説に出会って、これはすごい作品だと思っていたら翻訳する機会をもらった、というのが一番の大きなきっかけですね。そうして『紙の民』の翻訳を進めているうちに、プラセンシアのように、英語で小説を書いているけれどもその背景には作家の複数言語体験がある、というケースがかなり多く存在することに気がつきました。」

 

メキシコに生まれ、8歳の頃アメリカに移り住んだサルバドール・プラセンシアの『紙の民』がきっかけになったという。僕も以前読んだのだが、物語はもちろんその構成自体も前衛的な斬新な作品だった。舞台設定や登場人物の名前などには、メキシコの公用語であるスペイン語の影響が見て取れる。

『紙の民』

 

 

メキシコ生まれでアメリカ在住の作家、サルバドール・プラセンシアのデビュー作。メキシコ人の男、フェデリコ・デ・ラ・フェはおねしょが原因で妻に出て行かれる。傷心の彼は娘とともにアメリカに移住し新しい生活を始めたが、土星に見られている視線を感じる。ギャングとともに土星と戦うという奇想天外なストーリー。三段に別れた原稿レイアウトや縦横の表記が混ざり合い、文章が黒塗りのページがあるなど、作品自体から小説の枠組みからはみ出していく前衛的な小説。

作家と第一言語との隔たりを消さない工夫

第二言語である英語で創作する作家は、英語を母語とする作家の作品とは違った点があるはずだ。複数の言語体験を持った作家自身は、自身のルーツが色濃く反映されたストーリーを仕上げようとするイメージがある。生まれ育った土地や両親が登場したり、母語の影響を強く受けた英語文体が生まれていく。藤井さんは移民文学に頻繁に見られる「第二言語としての英語で書かれた物語」を翻訳することをどのように捉えているのだろうか。

 

「どうしても、どこかに第一言語の痕跡が残っているのではないか、英語自体がかなり変形しているのではないか、そこに作家の葛藤があるのではないか、というある種のロマンを期待して読んでしまう傾向がありました。そうした期待に比べると、実際の作品にはそれほど大きな言語的特徴があるわけではないというのが実情です。特に、小学校低学年までに合衆国に移住して作家になった場合、初等教育から英語なので、文章に強い癖があっても、それは第二言語で書いているからというよりも作家としてのスタイルとして考えるほうがいい気がします。むしろ、そうした作家にとっては、第一言語の世界の記憶がかなり遠くなってしまっているという隔たりのほうが葛藤として大きかったりします。翻訳する時は、その隔たりの感覚を消さないようにしようという点を意識しているので、英語が母語である作家の作品を翻訳する時との違いといえばそこが大きいでしょうか。」

 

第二言語としての英語で書かれた小説を翻訳する時、それは言語そのものを移し替えるだけにとどまらず、文化や歴史が色濃く反映された物語をニュアンスをきちんと保ったまま別の言語で表現することとなる。日本語表現の理解があり、英語力が高ければ翻訳ができるわけではないということだ。文化の理解や、作家が持つバックグラウンドを念頭においた解釈など、語学力以外に必要な力が確実に存在しているはずである。藤井さんの目にはどう映るのだろうか。

 

「文学作品にはそれぞれに特有の「感覚」というものがあります。物語や語りのトーンや登場人物の造形など、すべてが重なった結果として生まれる感覚だと思いますが、それをどうイメージするのかが、翻訳を進めていく時にはけっこう大事な要素だと思います。人によっては、その「感覚」は温度として感じられたり、音として感じられたり、色彩や視覚的な次元で感じられたりするのだと思いますが、文学の翻訳に関していえば、文字で書かれた情報を再現するのと同じくらい、その感覚をどう言葉で再現するのかに心を砕く作業なのかなと思います。それに取り組むにあたって、学生時代にいろんな映画を観たということと、ずっと音楽を聴き続けているということの二つが助けになっているのかなという気がします。映像や音でたとえるなら、この小説はややグレーな色彩だろうかとか、低い不協和音がずっと続いているような感じかなとか、イメージしながら翻訳を進めていく感じでしょうか。」

作品が持っている「視点」を把握する

原文が持っている繊細なニュアンスを拾い上げ、適切な日本語へ変換する時に「感覚」に加えて、作品が持っている「視点」を把握することが重要だという。藤井さんはパキスタン出身の作家、モーシン・ハミッドの『西への出口』を例に、「視点」というワードからその工夫を教えてくれた。

『西への出口』

 

 

パキスタン、ラホール生まれの作家モーシン・ハミッドの長編小説。内戦が激化しつつあるイスラム圏の国で出会ったサイードとナディアが、街に現れた「他の国に脱出できるドア」をくぐり、ギリシャに辿り着く。その後もイギリス、アメリカとドアを通じて西へ移動し、内戦から離れた移民の異国における生活を描く。ドローンで監視されるシーンや、登場人物の恋愛など、視点の移動がその語り口の角度を決める重要な要素となっている。

「あんまり大した工夫をしているわけではないので、ドヤ顔で答えられるわけではないですが、作品が持っている「視点」を把握した上で訳すようにしています。モーシン・ハミッドの『西への出口』では、移動する人々を描く語りの視点はドローンの視点に近い時と、登場人物たちの人間性を浮き彫りにしようと接近する時が入り混じっています。そうした遠近感覚の微妙な動きとかは、訳している最初は気が付かなくても、文章を二度三度と読み直している時に改めて気が付くことが多い。描かれている出来事や登場人物に対して、物語そのものはどういう距離感を持っているのか、ということをイメージしておくと、作品の複雑さを保持しながら訳すにあたってはある程度役に立つように思います。」

翻訳的な作品が明らかにする問題意識

言語を移し替える翻訳が狭義の翻訳とするなら、文化自体を別の形を与え異文化圏の人々へ広げていく「広義」の翻訳が存在しうるのではないか。藤井さんが共著書『現代アメリカ文学ポップコーン大盛り』の中で「マレー語の文化圏で育った彼が、マレー語についての物語を英語で書く構図が翻訳的」であると取り上げていた、シンガポール人でマレー語話者のアルフィアン・サアットの『マレー素描集』について聞いてみた。

 

「作者の言葉を借りると、シンガポールは多言語社会なわけですが、各言語で書かれる文学作品は、マレー語ならマレー語話者の内側にとどまっていて、そこから広がっていかないという問題を抱えているわけです。相互理解のチャンスがないので、マレー人についての物語を英語で書くことで、作者が翻訳者という役割も引き受けて、マレー語話者以外の読者も積極的に招き入れようとしている、という点が特徴的かなと思います。でも、英語での創作が「お互い理解できる物語になってよかったね」みたいな話で終わるわけでもないのです。東南アジアでかつてイギリス領・アメリカ領だった社会では英語話者が特権的な立場にいるので、英語で「翻訳的に」創作する作家は、それ以外の言語との上下関係を見据えないわけにはいかない。そうした屈折した状況から生まれた物語では、独特の問題意識が研ぎ澄まされているなと感じています。」

 

マイノリティのマレー語と、マジョリティで特権的な立場の英語の関係が生み出すねじれの中で展開される物語の『マレー素描集』。英語で書かれたことで他の国で翻訳され読者を獲得するチャンスが生まれるが、言語をいくつか跨いだ時にそのねじれた上下関係の構図が出来上がる。マイノリティである非英語圏のテーマを英語で書くことは、それまで英語には存在しなかったモチーフを描いた物語を生み出す行為であり、作品自体が「翻訳的」と捉えることができる。どうすれば原作で表現されていることをそのまま届けることができるのだろうか。

 

「たとえば『マレー素描集』には、マレー語読者だけに向けて書かれていたなら省略されていただろうなと思われる書かなくても通じる描写がわりと出てきます。その部分はマレー語話者以外の読者を意識していることが大きいと思うので、日本語読者向けに翻訳する際にはもう一回り理解しやすくするために、細かい作業ですが、作品自体が持つ性質に応じてシンガポールの歴史や社会についての知識を訳註などの形で提供するようにしています。」

翻訳は自己表現ではなくて、他人の言葉に自分を委ねる営み

ここまで話を聞いてみて、藤井さんにとっての翻訳は、すでに作家が作り出した物語を追体験し、本来持っている作品のエネルギーを取りこぼさないように言語を移し替える営みだとわかった。翻訳には膨大な作業と考察が必要となり、作品や作家が持つ歴史や文化などバックグラウンドを理解することも重要。そのため、原書が出版されてから翻訳本が日本で読めるようになるまで数年かかるケースも多い。そういった意味では、ゆっくりとレンガを一つづつ積み重ねるような正確さと継続性が求められる翻訳は「スローな表現」と言えるのではないか。ますますスピードアップする世界のあり方と逆行する「時間がかかること」としての翻訳にはどんな意義があるのかを最後に聞いてみた。

 

「作品の特徴やその意義を考えるには、実に多くの知識と準備が必要になり、さらに自分の日本語の文章を根気強く何度も手直しすることも要求されます。その時間は、「自己表現」ではなくて、徹底して他人の言葉に自分を委ねることになるんです。それって、自分は自分でなくてもいい時間なわけですよね。やれフォロワーが何人だとかリツイート数がどれくらいだとか、自分の価値をリアルタイムで計測されている世界から離れていられるのは、僕にとっては大事な時間です。小説を送り出すというのは、いつ誰がそれをひょっこり手に取るかわからないので、翻訳したことの意味がわかるのは数年後ということもざらです。とにかく「待つ」ことの大事さを教えてくれるのも、文学の意外な効用のひとつかなと思います。」

 

「待つ」ことの大事さ。即効的な効果はないけれど、時間がかかることで耐久力のある普遍的な作品が世の中に届けられる。SNSの浸透でコンテンツには瞬発力とスピード感が求められ、ますますその寿命が短くなっている。そんな中、スローな表現としての文学、そして翻訳は、コンテンツの強度を高められ、読者も一冊をじっくり読み切るための心構えで立ち向かい、作り込まれた世界の中で繰り広げられる物語に時間を忘れて没頭する。もしかすると、一度読み終えた作品を、時間が経った後に読み返すこともあるかもしれない。

 

翻訳は表現であることは間違いない。しかし翻訳者は、「自分はこんな人間なんだ!」と知らしめるための自己表現を実践しているわけではなく、徹底的に作家の言葉に寄り添い訳文を捻り出す職人なのだ。異文化の世界で書かれた物語を、鮮度そのままに日本語へ変換する。英語から日本語に物語を移し替えられた言葉の裏には、膨大な情報量と仕事量が見て取れる。これほど時間と労力のかかる「スローな表現」の翻訳に没頭できるのは一番のファンでないと続けられないだろう。翻訳者の作品に対する偏愛と原作の言葉への真摯な向き合い方を想像すると「表現」としての翻訳文学が見えてくるのかもしれない。

藤井 光(ふじい・ひかる)

 

1980年大阪生まれ。東京大学文学部・人文社会系研究科現代文芸論研究室准教授。翻訳家。デニス・ジョンソン『煙の樹』で翻訳家デビュー。2013年にはテア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』で本屋大賞の翻訳文学部門で大賞を受賞。さらに2017年にはアンソニー・ドーア『すべての見えない光』で日本翻訳大賞を受賞した。代表的な訳書にはセス・フリード『大いなる不満』、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』、マヌエル・ゴンザレス『ミニチュアの妻』等。著書に『ターミナルから荒れ地へ「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』、『21世紀×アメリカ小説×翻訳演習』等がある。

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