俺の人生、三種の神器 -丹七海 ③放送部編-
▼俺の人生、三種の神器とは?
人生の転換期には、必ず何かしらきっかけとなる「人・もの・こと」があるはずです。そのきっかけって、その当時は気づけないけれども、振り返ると「あれが転機だった!」といったことはありませんか?そんな人生の転機についてアンテナ編集部で考えてみることにしました。それがこの「俺の人生、三種の神器」。
折角なのでもっとアンテナ編集部員ひとりひとりのことを知ってもらいたい!そんな気持ちも込めたコラムです。これから編集部員が毎週月曜日に当番制でコラムを更新していきます。どうぞお楽しみに!
高校時代に所属していた放送部は、私が初めて経験した「社会」でした。身にのしかかる責任と役割、先生や生徒会との腹の探り合い、息を呑む程ひりつく現場の空気。辛かったこと、大変だったことを思い返せばキリがありませんが、それ以上に多くの学びが得られた場所でした。漫然とした怠惰な毎日を過ごしていた私に、今に繋がる光明をもたらした放送部。あの三年間で得た学びは、ライターとして活動する今に大きな影響を与えてくれました。
座右の銘:思い立ったが吉日
中高一貫校に通っていた中学時代、赤点を取らない程度に勉強して、形だけの進学試験を受けて高校に上がった。変わったのは校舎だけ。周りの友人もほとんど変わらず、担任も中学3年次と同じ先生。代わり映えのしない毎日、同じことの繰り返し。良くも悪くも、怠惰で穏やかな毎日の連続。新学期が始まって数日、私はことの重大さに気がつきました。「このままだとダメになる」。流し流され日々のうのうと生きていくのはごめんである。一生に一度の高校生活、何かを残さないと絶対に後悔する。思い立ったが吉日、とある春の日、私は放送部に入部しました。選んだ理由は一つ。音響機材に触りたかったから。
六畳の防音室から始まった青春
放送部の部室は、六畳ほどの小さな部屋でした。防音だけが取り柄の、大量の機材と少人数な部員に見合わない長机のせいで狭苦しかった部室。「放送部」という同じ目的のために集まった私たちは、互いの関係に気を遣うことも空気を読む必要もありませんでした。だからこそ気兼ねなく接することができ、部員一同良好な関係を築けていたと思います。活動はとても楽しくて、青春の煌めきが存在するのなら、間違いなくあの日々だったと断言できます。運動場にスピーカーを運んで息を切らした日、片付けが長引いて怒鳴られながら校門を飛び出した日、トラブル対応のために暗転した体育館をインカム片手に走り回った日。全身全霊を捧げた部活動の日々は、生涯忘れられない記憶になりました。
放送部では全員が何らかの役目を担います。アナウンス、音響、照明、進行……。やりがいと楽しさが詰まった自分のポジションには、同じぐらいの責任も伴います。音響担当だった私にとって文化祭は最も大切なイベント。音楽をかける瞬間はいつも緊張していました。私の責任はつつがなく文化祭を終わらせること。そのためにもSEを流すタイミングを間違えてはいけない。手が震えるほどの緊張はそれまでの学生生活では感じたことのないプレッシャー。高校生でありながら自分が果たすべき責任を学べる機会は、放送部に入らなければ得られていなかった感覚と体験に違いありませんでした。
彼女の背中を追い続けて
部長は中学からのクラスメイトで、とても仕事のできる人でした。周囲への気づきや先生との程よい距離感、仕事の素早さ。同い年ながら、私は彼女に憧れていました。与えられた仕事を完遂しなければならないことを、言葉よりも部員に対する態度で示していた彼女。厳しくも真剣に、ある時は理不尽とも言える状況に立ち向かう姿が、とても格好よかったのです。彼女の背中越しに見てきた姿勢は、今のライター活動に活かされています。引き受けた仕事は完璧にやり切ること、企画の立案者として責任を持つこと、発信する言葉の一つ一つに責任を持つこと……。放送部での学びは、形を変えて私の行動原理となりました。流し流され怠惰に生きていた私に、これからの道を指し示してくれた彼女には、本当に感謝してもしきれません。
「拝啓、放送部の部長へ」 お元気ですか? 私は元気です。キビキビしてリーダーシップがあって、人見知りで根暗な私にとって近寄りがたいぐらいに眩しかった貴方。真摯に部活に向き合う大切さを教えてくれた貴方がいたから、今の私がいるのです。卒業してから会えていませんが、同窓会で再会できた折には、お酒の一杯ぐらい御馳走させてくださいね。
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WRITER
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97年生、大阪の田舎ですくすく育った行動力の化身。座右の銘は思い立ったが吉日。愛猫を愛でながら、文字と音楽に生かされる人生です。着物にハマりました。
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