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ドキュメンタリーってリアルじゃない?『1000年刻みの日時計 牧野村物語』で考える、映像のホントとウソ―思い出せない映画たち #1

「すごく良い映画だった……」その感覚だけが残り続け、内容を語ろうとするとなぜだか言葉が出てこない。あのシーン、あの表情、あのセリフが記憶の中で燻り続けている。あの時間はなんだったんだろう?

 

幼少期から観た映画が15,000本を超えても「もっと映画を観たい人」として活動する川端安里人が、“思い出せない映画たち”を振り返り、あの日の感覚の正体に迫ります。

 

あなたもあります?そんな映画。

MOVIE 2026.04.23 Written By 川端 安里人

それも本当に“ヤラセ”なのか?

インターネットを見ていると「これはヤラセだ」などと言って炎上しているところを度々目撃する。さらには進化したAI技術などによって作られた様々な“フェイク”が溢れ、今や私たちが生きているこの世界はポスト・トゥルースだなんて言われている。

 

しかしヤラセは本当に炎上させて袋叩きにしないといけないような100%の悪なのだろうか?例えば映画史上最初のドキュメンタリー映画である『極北のナヌーク』(1922年)という映画では、イヌイットの生活を撮る時に光量の問題で彼らの家であるイグルーを半分に割り、その中での生活を再現してもらって撮影したというのは有名な話である。これもヤラセと言うのなら、もはやドキュメンタリーというジャンルは、出鼻からもうダメで許されないジャンルということになってしまう。

そしてさらにこの手法をもう一歩踏み込み、ある種の素晴らしい共犯関係のようなものにしてしまった監督もいる。それが小川伸介だ。

 

小川監督は1960年代後半から70年代前半にかけて起こった三里塚闘争※を現地に住み込んで撮影していた監督。しかし徐々に政治闘争からそこに根をはる農民たちの暮らしそのものに興味がシフトしていき、三里塚シリーズの後は山形県上山市に移住しその地域の養蚕や畑仕事といった人々の暮らしにカメラを向けた。その小川監督の撮影クルーと地域住民との“共犯関係”が映画史上的にも特異な形で結実したのが『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1987年)である。

※新東京国際空港(成田空港)建設時に、地域住民やそれに呼応する学生による反対運動と、警察・国家との間で起こった衝突

この映画を牧野村に暮らす人々の生活を記録したドキュメンタリーと言ってしまうのは簡単だが、それでは決定的に何かが抜け落ちてしまう。なぜならこの映画が撮ろうとしているものは村の生活だけではなく、その村に蓄積された時間そのものだからだ。畑を耕し、種を蒔き、収穫し、冬を越す。そうした営みが、農機具の変化こそあれどほとんど同じかたちで何百年も繰り返されてきたし、今も行われている。そこにはドラマ的な意味での事件はほとんど存在しない。だからこそ逆説的にドキュメンタリーという、いわば真実だけを写していると思われがちなジャンルにおける“虚構”、いわばヤラセが登場する瞬間に、時間の地層のようなものが露わになる。

物語でもメッセージでもなく、その時間感覚が胸を打つ

ではこの映画のヤラセは何を生んでいるのか。

 

例えば御立派な御神体の話。「再現してもらいました」という何ともあっけらかんとしたナレーションと共に始まるこのシーンでは、畑から石の御神体を地元農家のご夫婦が発見した時の様子が再現されている。数百年前に拝まれ、地中で忘れ去られていた地域の民間信仰の歴史そのものである御神体と、農家本人たちの訛りのある棒読みという不思議な演技が撮影された、発見時の“再現”。あるいはかつての農民一揆の“再現”シーンでは、石橋蓮司など有名俳優が時代劇然として演じる奉行に、ジーパンやツナギ姿の現在の農家たちが先祖である農民役として抗議する。

 

いわゆる演劇ともドキュメンタリーとも違うこのシーンたちは、まるで切り株の年輪のようにこの村での蓄積された時間と歴史を映画の中で一つに濃縮させている。さらに電子顕微鏡による米の開花などに迫った科学的アプローチにより、縄文時代からの“人間と土地”そのものへの視線が、いち地方の昔話では済まされない領域まで推し進めている。

 

目には見えない時間の厚み、私たちが普段意識する“今”という瞬間は、そのごく表層にすぎないのかもしれない。一般的な映画は“今”を切り取り保存する。しかしこの映画はその時間の地表に深く深く潜っていき、そこに埋まっている存在を“今”に照らし出しているかのようだ。

 

この映画が作られてからもはや40年近く経っている。現代(の映像)は分かりやすさや即時的な理解を求める。短いカット、明確なメッセージ、効率的な情報伝達、遅いと思えばすぐにスワイプ……

 

言ってしまえば全てが“都会の時間”への同期を強いられている。しかし『1000年刻みの日時計』は、その対極だ。

 

理解されることを急がず、むしろ観る側の時間感覚をゆっくりと変質させていく。その土地に流れる時間を身体的な感覚として共有させてくれる。この映画に映る風の冷たさ、土の重み、季節の移ろい、時間の蓄積。この映画を観終えたとき、私たちは何かを“理解した”、“共感した”というより、自分の中の時間の流れがわずかに変わっていることに気づくだろう。

 

それは劇的な変化ではない。しかし確実に、日常の見え方に影響を与えるような変化だ。例えば、同じ道を歩くとき、季節の移ろいに少しだけ敏感になるかもしれない。あるいは、繰り返される日々の中に、これまでとは違う意味を見出すかもしれない。

 

その映像が再現だ棒読みだヤラセだなどは、もはや関係ない。映画が終わったあとも、その余韻は長く長く残り続ける。それこそが真実であり、映像という時間による表現なのだと私は思う。

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