映画館で見なくて良かった。スペイン製の鬱映画?『マジカル・ガール』
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私は基本的に映画は劇場で観てこそ価値があると思っているタイプの者だ。だが2014年製作のスペイン映画『マジカル・ガール』は「劇場で観なくて本当に良かった」と思った作品である(レンタルで観た)。エンドロールが終わり、客電が着いた後の尋常ではない自分の姿が容易に想像できるからだ。
映画.com による解説は以下のものである。
「日本の魔法少女アニメにあこがれる少女とその家族がたどる、思いがけない運命を描いたスペイン映画。独創的なストーリーや全編を貫くブラックユーモアが話題を集め、スペインのサン・セバスチャン国際映画祭でグランプリと観客賞を受賞するなど、高い評価を獲得した。監督はこれが長編映画デビュー作となる新鋭カルロス・ベルムト。白血病で余命わずかな少女アリシアは、日本のアニメ「魔法少女ユキコ」の大ファン。ユキコのコスチュームを着て踊りたいというアリシアの夢をかなえるため、失業中の父ルイスは高額なコスチュームを手に入れようと決意する。しかし、そんなルイスの行動が、心に闇を抱えた女性バルバラやワケありな元教師ダミアンらを巻き込み、事態は思わぬ方向へと転じていく。」
これだけ読むと「難病もの・ハートウォーミング系」ともとれるし、なんならシュワルツェネガー主演の『ジングル・オール・ザ・ウェイ』のようなコメディだと勘違いする者もいるだろう。また現在は演歌歌手として活動する長山洋子(因みに彼女の米国人夫は川中美幸のファンクラブに入っている)のアイドル時代のデビュー曲『春はSA-RA SA-RA』が使われていたり、日本の魔法少女ものアニメが関係することから「日本スゴイ!」的なものかと思いきや、それらはあくまで作品世界をより豊かにするためのエッセンスにすぎず、観始めた途端、常にツイストし続ける脚本に翻弄され、悲劇の極北とも言える結末では気付いたら絶海の孤島に辿り着いていた、といような錯覚に陥るだろう。
以下、ネタバレを含み、かつ結末にも触れているので本作を観賞後にお読みいただくことをお勧めする。
「カトリック3大悪」と『オズの魔法使い』
カトリックにおける三大悪である「世界」「悪魔」「肉欲」と題された3つの章により構成された本作、ナレーションやモノローグ、説明的な台詞は一切ないのだが、そこかしこに観客に物語を染み込ませる、或いは「観客を蝕む」と表現した方が適切かもしれない仕掛けが隠されている。
主要登場人物4人のうちのルイスとアリシアの父子の名前は確実にルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に由来するものだ。またルイスが名乗る偽名「ペドロ」も深読みすると聖人ペトロ(ペテロ)からとられていると考えられる。ペトロはカトリックではその功績から初代ローマ教皇とみなされているが、キリスト捕囚の際には関係を否認した裏切り者でもある。この二面性はルイスの人物像にぴたりと当てはまる。彼が金策のために大事にしていた本を売る姿はまるで良心を売っているように観てとれないだろうか。
そしてそんなルイスに関わり翻弄される女性バルバラが大金を得るために訪れる車椅子の男の館、全く描写はないのだが、部屋で行われる我慢すればするだけ報酬が増えるというおそらく非人道的な行為を止めるための合言葉「ブリキ」。「ブリキ」と聞くと『オズの魔法使い』のブリキ男を想起させられるが、ブリキ男が失っていたものが何だったかを考えると良いだろう。
深淵もまた等しくおまえを見返すのだ……
特筆すべきは鏡を使った2つの演出だ。1つ目は冒頭、不思議かつ不気味なプロローグが終わると『春はSA-RA SA-RA』のイントロが流れ出し、鏡に向かって踊る少女アリシアが現れる。カメラは鏡越しに彼女を撮影しているのだが、突如彼女はお腹を押さえてカメラと鏡、2つのフレームから姿を消す。
2つ目は夫に出て行かれたバルバラが鏡に額を押し付けて割るシーン。勢いをつけて頭突きするのではなく「押し付ける」というところにかなりの禍々しさを感じるのだが、このシーンでもカメラは鏡越しに彼女を捉えている。鏡を使った撮影をする際、鏡越しに撮影するのは当たり前のようにも思えるが、元教師ダミアンがある決意をし、鏡に向かって身なりを整えるシーンではカメラは鏡越しではなく側面から彼を捉えている。
彼女らとダミアンとの演出の差は何であろうか。言わずもがな、映画においてカメラは我々観客の視点に他ならない。「神の視点」などと呼ばれる観客の眼であるが、鏡越しに彼女らを見つめる時、こちらも見つめられているような錯覚に陥りはしないだろうか。アリシアとバルバラは映画の登場人物として観客に「観られる側」であるが同時に観客を「観る側」でもあることをほのめかしている。「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」というニーチェの言葉を思い出す。
対してルイスとダミアンはただ「観られる側」である。序盤、ルイスが宝石店の店員から見つめられているシーンや、ダミアンが語った過去、その後のアリシアとの接触からそのことがわかる。
本作が観客の眼を意識しているのはルイスとアリシアの父子が「魔法が使えるならどんな力を望むか」という会話のシーンでも示唆している。ルイスは「透明になる」と「触られなくなる」の2つを望むが、これは明らかに我々観客のことを指している。
『アニー・ホール』や『デッドプール』のように映画の登場人物が所謂「第四の壁」を破って直接観客に語りかけたりはしないので、こちらもある程度感情を揺さぶられながらも安穏と観賞し続けられるのであるが、エンドロールが始まる寸前、ほんの一瞬ある人物の眼がこちらを向きカメラ目線となる。ライムスター宇多丸氏の評論にもある通り、この瞬間「観る・観られる者の逆転」が起き、画面内の地獄と平穏に見える我々がいる画面外の空間が実は地続きであることを否応なく意識させられて背すじに氷柱を差し込まれたような感覚に陥る。
『Quien te cantara』もいつか来日する?
監督・脚本のカルロス・ベルムトは本作が劇場公開の長編としては一作目。本国スペインでは二作目となる『Quien te cantara』(直訳すると『誰があなたに歌ったか』古いラテンナンバーのタイトルのようだ)が2017年に公開。日本での公開が待たれる。
何かの機にこの『マジカル・ガール』が再び劇場にかけられることになっても、私は決して足を運ばないだろう。劇場の環境で本作のラストシーンを観てしまったら確実に私はダミアンのように「見るな… こっちを見るな!」と叫んだ後、目耳口から血を、そして下半身からは糞尿を垂れ流しながら発狂する自信がある(褒めている)。
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プロフィール“19XX年、京都府北部に落ちた隕石の落下現場にて発見され施設で育つ。
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14歳の時にカート・コバーンに憧れ施設から脱走。紆余曲折を経てシアトリカル・テクノ・ポップ(TTP)バンド「マグナム本田と14人の悪魔」を結成。
京都のバンドシーン関係者8割くらいから嫌われている。
https://youtu.be/1tYuVpXR1qY