『クリード 炎の宿敵』を観るか観ないかというその分かれ道で “観ない”を選んだ人々に捧ぐ
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世の中には二種類の人間がいる。階段を登るときにビル・コンティのスコアによる『Gonna Fly Now』(所謂『ロッキーのテーマ』)が頭の中に流れている者とそうでない者だ。私はもちろん前者であるし、またそれを誇りにさえ思っている。
では一般社会においてはどうだろうか。『ロッキー』シリーズ、ひいてはシルベスター・スタローンというと “とりあえず勝つ”, “マシンガンで悪者を皆殺しにし、そして最後は勝つ”, なんなら “頭の悪い人が観る映画に主演している”, というイメージが未だにあるのではなかろうか。ある意味正しいが、それは『ロッキー2』, 『ロッキー3』,『ロッキー4』や『ランボー2』『ランボー3』などの80年代作品、そして『エクスペンダブルズ』のイメージに囚われていると断言する。細かいことを言えば『エクスペンダブルズ』ではマシンガンだけじゃなくてリボルバーを愛用してるよ!あと『ランボー』では弓矢も使うよ!先にナパーム付いてるけどな! なんて反論したくもなるが、本題と関係ないので割愛する。
それらのマッチョなイメージが付きまとうスタローンであるが、実は繊細さと大胆さを併せ持つ非常に稀有な映画作家・脚本家である。それは彼の名を世界に轟かせた『ロッキー』一作目を観ればわかる。
ただのボクシング映画だと思われがちな『ロッキー』であるが、宿敵であり後に親友となる世界チャンピオンのアポロ・クリードとの試合はたった13分間しかない。ストーリーの中心はロッキーをはじめ、当時不況のどん底にあったフィラデルフィアのうだつの上がらない人々の日常の繊細な描写である(それは30歳を過ぎても大成できないでいたスタローン本人の心象風景でもある)。そしてネタバレ警察に怒られることを覚悟してぶっちゃけるとクライマックスの試合では判定で負けるのである。しかしこの作品において勝つことは重要ではない。では『ロッキー』のなにが人々を魅了したのか、月曜ロードショーの荻昌弘氏の名解説をご覧頂きたい。
人生するかしないかというその分かれ道で「する」を選んだ。これこそが『ロッキー』の真髄である。2018年非常に話題になった『カメラを止めるな!』は伏線回収の巧みさばかりが語られがちな作品であるが、私はこの作品をロッキーだけでなくエイドリアンもミッキーもポーリーもなんならガッツォもリングに上がって戦った『ロッキー』として胸を熱くし号泣した。
一作目が大ヒットした『ロッキー』はその後三部作としてスタローン自身の監督により『ロッキー2』『ロッキー3』が製作され、その勢いは止まらず1985年に『ロッキー4 炎の友情』が作られることとなる。この頃になるとシリーズは少年ジャンプ的インフレが加速、1986年と米ソ冷戦時代だったこともあり、アメリカ側の一方的な視点から見た「ソヴィエトというよくわからないもの」を象徴する”ボクシングサイボーグ” イワン・ドラゴ(演じるのはドルフ・ラングレン)と対戦することになる。シリーズ中最大の興行収入を上げるものの、序盤に安易な “ある悲劇”があったり、荒唐無稽すぎる内容により批評的には最悪。見事ゴールデン・ラズベリー賞 “最低監督賞”を射止めることとなる。
その後スタローンは長く低迷するが1990年に『ロッキー5』をはさみ、シリーズ最終作『ロッキー・ザ・ファイナル』で見事自身の作家性を取り戻し復活。さらには評価の低かった80年代マッチョ映画をメタ化した『ランボー 最後の戦場』, 『エクスペンダブルズ』も大成功。と第二の黄金時代を迎え、我々ファンも歓喜していたのだが、そこに不穏な黒い影が近寄ってくる。『クリード チャンプを継ぐ男』(2015)である。
「アポロ・クリードにアドニスなる隠し子がいた」という超後付け設定、「監督はインディー作品を一本撮っただけのライアン・クーグラーとかいうよくわからない奴」という情報が駆け巡った時、ファンの多くは「せっかく『ファイナル』(2006)で綺麗に終わったんだから余計なスピンオフはヤメテー!」と叫んだはずだ。私も不安を抱えつつ劇場に足を運んだのだが、二時間後、そこにはシャツの襟元までびしょびしょに濡らした男がいた。
父の試合に自身を重ねるアドニス、そしてクライマックスの試合で劣勢に立たされたアドニスのセコンドでの咆哮、ここぞ!という時に鳴るファンファーレに「これはなにもかもが『ある』満たされた時代、ハングリーさを必要としない時代、場所に生まれたオレの為の映画だ!」と心の中で絶叫。帰宅して即シャドーボクシングを始めさせる大傑作であった。
そして三年後、私は「続編の相手はあの評価の低い『ロッキー4』のドラゴの息子」, 「監督はまたインディー作品を一本撮っただけのスティーヴン・ケープルJr.とかいうよくわからない奴」という不安を抱えながら『クリード 炎の宿敵』の初日初回へと向かった。二時間後、そこにはシャツの襟元までびしょびしょに濡らした男がいた。
『ロッキー』一作目がそうであったように『クリード 炎の宿敵』はロッキー、アドニス、アポロ、そしてドラゴ親子にかかった呪いからの33年ぶりの開放を描いていた。しかもその中心にいたのはあの男だった。
『ロッキー』一作目のロッキーとエイドリアンの何気ない会話の中に “Go the distance with Creed”という台詞がある。 “Go the distance”は「やり遂げる」という意味だ。前後の文脈も踏まえて意訳すると「アポロ・クリードとの試合には負けるだろうが、15ラウンド最後までオレはクリードと共にリングに立つ」という意思表示である。 “Creed”には「信念」, 「意志」といった意味もあることを付け加えておく。『クリード 炎の宿敵』で窮地に立たされたアドニスがレフェリーになんと叫ぶか……それはぜひ劇場で確かめて貰いたい。
シリーズ未観賞の方には「ロッキーシリーズ6作と『クリード』1作目を観てから行け!」と言いたいところだが、この記事を読んで貰ったならば最悪『クリード』1作目だけ観ておけばついていけるはずだ。大傑作にも関わらず興行成績が芳しくないようで上映館・上映回数も減ってきている。あなたは “観る”か “観ない”かというその分かれ道でどちらを選ぶだろうか。
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プロフィール“19XX年、京都府北部に落ちた隕石の落下現場にて発見され施設で育つ。
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14歳の時にカート・コバーンに憧れ施設から脱走。紆余曲折を経てシアトリカル・テクノ・ポップ(TTP)バンド「マグナム本田と14人の悪魔」を結成。
京都のバンドシーン関係者8割くらいから嫌われている。
https://youtu.be/1tYuVpXR1qY