
『編集の編集の編集!!!!』座談会02 〜「集めて編む、そして渡す」編集者は遣唐使? 〜
5/10(土)開催の『編集の編集の編集!!!! 第2稿』で制作するZINEに掲載予定の座談会の記事をトークイベントに先駆けて一部公開。編集者は編集者が書いた文章に何を感じ、どのようにして考えを発展させていくんだろう?「コンテンツを作ることの功罪」や「編集者とクリエイティブディレクターの役割」、「課題解決の武器としての編集」など、連想ゲームのように話がつながっていった座談会の模様を、昨年行われたイベントの写真と一緒にお届けです。
コンテンツを作ることの功罪

お疲れ様ですー。
みなさん、先日はすいません。時間を空けておいてもらったのに、原稿が間に合わずリスケしてもらっちゃって。
謝罪から始まる会(笑)
無事に揃いましたね! 前回の座談会記事と3人のコラムが。
もう忘れてきてます。自分が何を書いたかを。
確かに(笑)。さて、今日はどうしましょうか。みんなの原稿を読んだ上での感想を言い合います?
そうですね。どれもキャラクターが違ってて面白かったなぁ。まずはフレッシュな題材から話しましょうか。光川さんの原稿は1時間前くらいに届きましたけど、これはさっきまで書いていたんですか?
昨日の夜にある程度まで書いて、朝にチェックして出しました。なんで、ほんまに書きたての原稿です。まだ読めてないですよね?
さっき移動中に読みました。
朝一で。光川さんの原稿は、やっぱり蓄積を感じましたね、編集者としての。
編集について書くって、むっちゃ難しかったですね。書きづらかった。普通の仕事やったらほとんど感じひんねんけど、書いてて不安になるというか。
書くテーマはすぐに出てきた感じですか?
いや、追い込まれてどうにか。編集をテーマにすると概念を書きがちやから、それはやめたいと思っていて。実際に取り組んでいるプロジェクトで、編集者として重視していることを抜き出すという方向性では考えていました。
編集の「集」は「人と会って自分の目と耳で情報を集める作業」だと思っているんだけど、そこだけにフォーカスした話が多いと感じてたので「編」のことを書きたいなと。編集の価値は、「編む」にもあるので。その2点を踏まえて、何をネタにしようか考えてたんですよ。で、ちょうど昨日はモーフィングの作業をしていて「これでいこう!」と思った感じですね。

実際に昨日やっていた仕事が題材になってるんだ。
目の前のものが出てくるのは編集者っぽい感じがしますね。今考えていることが出ちゃうというか。ライターだと、もうちょっと取材対象を探したりしそう。
まさに光川さんの原稿に書いてあった「私的な問いかけを社会にする」をやっているコラムですね。
ね。「ちゃんと地に足がついてるな」というのが、読んだときの印象。堤くんの原稿もだけど、京都という土壌から出てきているものがある。逆に「俺は土壌がないなー」って思った。
そうなんかなぁ。僕はみんなの影響を受けないように、自分の原稿を書くまで2人のコラムを読んでいなかったんやけど、柿さんのを読んでいて自分が書いたことの馬鹿らしさを自覚しましたね。柿さんは、都市部における編集者の問題性を指摘していたじゃないですか。
そんなこと書いてたっけ?
特に東京の編集者を指して、「人間同士の会話を目指した方がいい」みたいなことを言ってて。本当にその通りだと感じたんですけど、自分の編集の考え方と照らし合わせたときに「集めるのが上手い人って、別に編む必要がないのかもな」と思ったんですよね。取ってくるネタの質がいいから、そのまま食べても美味しいというか。
ただ、状況的に質の高い素材が取れないことってあるじゃないですか。時間がないとか、予算がないとか、あるいは提供された素材でなんとかしなきゃいけないことが。そういう風に集める行為に縛りがあって、編む行為で魅せなきゃいけない状況のときに諦めちゃう人が多いなと思って。鮮度が低いネタでも転がせるやんというのを、自分の原稿では書きたかったんです。だから、柿さんと僕のコラムは対比的になっているのかなと思いました。
うんうん、素材に対するアプローチがね。
東京で編集の仕事をする利点として、柿さんが「手元に集まる素材と人間関係の総量が多い」と書いてて、本当になるほどなと思った。確かに、それは編集者として、モノが作りやすい状況だなって。都市部で編集者をやる利点が、わかりやすく定義された気がする。
東京とは違う文脈だけど、京都も土地に根づいた素材が集まりやすい場所だよね。みっちゃんが書いた水無月のコラムを読んで、そう思った。そこから離れようとする堤くんは、マジでひねくれ者だなと思ったし(笑)
そうやねー(笑)。東京って人を軸にネタが作れるけど、京都ってあんまり人でネタを転がせへんくて。だから、場所とか、今回書いた水無月みたいな、歴史の中で価値付けされたものしかネタになりにくいなと。
だけど、堤くんがすごいなと思ったのは、世間でもてはやされている言語化とは正反対にあるようなことを言ってて、「なにがコンテンツじゃ」って書いてたじゃないですか。それをスーパーの文脈で書き上げていくという、生活者としてのリアリティ。なんでもかんでもコンテンツとか言わずに、価値観を提示しろっていうメッセージなのかなと思って受け取りましたね。ひねくれてはいるけど、めっちゃわかるなって。
ありがとうございます。いや、なんか難しいなって思ったんですよ。そもそも、今回の話自体が。「編集ってなんだろう」みたいなことを話すことはできるんですけど、僕自身、あんまり編集という言葉にこだわりがないんですよね。そこが柿さんや光川さんとは大きく違うところだなと感じていて。自分がやっていることがすごく編集的な行為だというのは、客観的にも理解はしているんですけど。
今の世の中を見た時に、「編集的な行為を定義しようとする動き」と「既存の編集の定義を壊そうとする動き」の両方があるような気がしていて。その中でも、自分が仕事をしたり、いろいろな現場やアウトプットを見ていて、編集的行為の先であまりに対象をコンテンツ化してしまっていることが、僕はずっと気になっているんです。「なに勝手に商品化してるの。人の人生じゃん」みたいな。
わかるよ。
ジモコロは人や場所をコンテンツ化しつつも、そこに抗っている意思も感じます。だからこそ、長く愛されるメディアになっているんだろうなって。そこのバランス感覚みたいなものが、まだ十分に話されていないんじゃないかと思うんですよね。
僕は仕事の現場において「コンテンツを作る」という言い方をできるだけ避けて、別の言葉に言い換えているんですけど、そういうことを書けないだろうかって思って作ったのが今回のコラムです。そういう意味では真っ当に書けたなという感触はあります。
対象をコンテンツと見なしてしまうのは編集者の性でもあるよね。知らないものを見つけて「こんなもの見つけてきたぞ」って出すのが楽しいじゃないですか。まだ世の中で知られていないものや、SEOに引っかからないようなことを見つけてくるのが編集者の仕事の一つだと思っている反面、未開の第三世界を見つけてしまうことで、人が集まってしまう危うさもある。
コンテンツ化されることによって消費が進み、見つけられなくても成立していた世界が崩れていくみたいなことに加担している側面もある。それでもやってしまう好奇心が勝つのが編集者なのかもなぁ。そこのバランスが取れたことはない気がします。
地方では、そういうことがよく起こりますよね。地元の暮らしを支えていた豆腐屋さんがメディアで取り上げられたことによって、大勢の観光客が押し寄せるようになり、町の人が買えなくなってしまうみたいな。堤くんが言っていたように、コンテンツ化が消費の入り口になってく感覚はあるな。
「編集者」と「クリエイティブディレクター」の役割を問い直す

編集者って、そもそも消費を促す存在だったんですかね? 成り立ちとして。
どうなんでしょうね。ただ、「どこを向いているのか」って話な気はしていて。前に聞いたラジオで、編集者とクリエイティブディレクターが比較されていて。クリエイティブディレクターはクライアントの方を向く存在で、編集者は読者側に向く存在という話をしていたんですよ。その塩梅がめっちゃ重要やなと。
自分もクリエイティブディレクターのような役割を担うこともあるので、その肩書きを使った方が仕事が広がって、経済的にも潤うような気がします。だけど、前にクライアントから「こっちが金出してるんやぞ」みたいなことを言われたときに、「俺はあんたのために作ってへんし」って普通に言ってしまって。
いい話(笑)
地域が主役のプロジェクトで、自分が関わる動機とモチベーションも、そこにあったんですよ。だから、お金を振りかざされたところで、ピンとこないというか。編集者って、クライアントのその先にいる読者を見ている気がする。
自分が儲けることしか考えていないようなクライアントとメディアをつくると、だいたいモメる。それこそ、そこにあるものをコンテンツとしてしか見ていないわけですよ。
それで言うと、クライアントに向き合うクリエイティブディレクターには、まったく興味がないな。クライアントが持っているお題は好きだけど。お題がないと新しい表現はできないから。
逆張り野郎なんで、その話にちょっと水をさしてもいいですか?
さして、さして~。
今のって、やっぱり編集の仕事をしてきた人だからこそのポジションの話やなって思っちゃうんですよね。僕は、クリエイティブディレクターが必ずしもクライアント寄りの立場だとはまったく思っていなくて。質の悪いクリエイティブディレクターが、そうなりがちって話なんじゃないですかね。編集者だって、きっとそうで。
役職ではなく、質の問題ってこと?
編集者に読者というわかりやすいターゲットがいるとすれば、クリエイティブディレクターは「誰が、何を、どうやって受け止めるのか」からデザインする仕事だと思っています。より大きな器を扱っているというか。
お金を出してくれる相手が目の前にいると、ついそこに流れてしまう。しかも、それでいいような気になっちゃうじゃないですか。だけど、実際にはもっと大きな範囲に届けるための技術や、説得するパワーを持ち得ないことが「クライアントに寄る」になっているだけで、本質的な仕事の方向性としては編集者もクリエイティブディレクターも違わないと思います。そこまでの意思とパワーと方向性を持って仕事ができる人は、あまり見ないですけど。

今の話、めっちゃ編集の編集してるな。マジですごい。ちょっと感動した。
堤くんの遍歴だからこそ言える話だ。このチームにおける堤くんの立ち位置、めっちゃ大事。
編むこと、渡すこと、ほどくこと

ちょっと話を戻しちゃうけど、東京の編集者の方との仕事で感動した話があって。堤くんとも一緒に、『BRUTUS』の京都特集の編集を手伝ったんですよ。その時にお会いした鮎川さんという、当時の副編集長がすごくて。2週間ほどで京都のキーパーソンをほとんどあたって、一通りの情報をバッとまとめあげるんですよ。本来だったら1年くらいかかって得られるであろう街の情報や解像度を、ムキムキと2週間でまとめてしまう。そのブルドーザー並みのパワーが、まずすごくて。
それと、雑誌ができあがった後に郵送物が届いたんです。めっちゃ重たくて、最初はコンクリートでも届いたのかと思ったんですけど、開けてみたら京都地名図鑑みたいなんが出てきて。京都って地名がむちゃくちゃ多いんですけど、それぞれの意味が書いてある本だったんですよね。鮎川さんが「マガジンハウスの事務所にずっと眠っていたんですけど、光川さんが好きな本じゃないかなと思って送りました」みたいな感じで送ってくれて。それってめっちゃ編集者っぽいなと思ったんですよ。テクニックといえばテクニックなんでしょうけど、自分には同じことはできんなと。
全然答えのない話をしちゃうんですけど、今のエピソードを聞いていて、「編集とは所持をしないことなのかもしれない」と思いました。編集におけるコンテンツ化の話にもつながりますけど、つまらないものにしちゃうのって、所持性みたいなものがある場合なのかなと。
鮎川さんが送ってくれた本って、本来は会社のものじゃないですか。それを「あの人が持っていた方がいいかも」ってことで、あっさりと光川さんに渡したわけですよね。我々がやっている編集的な作業って、何かを「残す」という語られ方をするけど、「渡す」って行為の方が近いのではないだろうかと思って。
「残す」の役割もあるけど、その先に「渡す」まで見据えると、編集者の仕事ってもっと拡張性があるのかもね。
コンテンツ化って、「そこで終わらせてしまう行為」な気がするんですよね。それ以上ボールが渡らなくなるというか。そういうまとめ方をしてしまうのが、つまらない編集なのかもしれないですね。
僕の周りには、自分のものを人に渡すことに躊躇がない編集者が多いような気がします。本は平気で貸すし、経験もどんどんギブするし、そういう気質の人が編集者には向いているのかもしれませんね。
めっちゃわかるな、その話。所有と保有の違いもありそうですよね。

所有は持っていることで、保有は持ち続けること?
ある京都のお坊さんに「保有と所有は違うんだよ」と言われたことがあって。「所有は自分自身で使えるけど、友人や得を生まない。保有は自身では使えないけど、辛いときに助けてくれる友人や得を生むもの」みたいな。
柿さんもコラムに書いていたように、たくさんの人や情報と交わっている状態の方が、編集者はパフォーマンスを発揮しやすいと思う。つまり、ある情報を自分だけに権利がある状態として所有するより、自分の手から離れた保有の状態にあった方が、いい仕事ができるんだろうなと。
誰にでもアクセスできる環境にしておくみたいなことなのかな。所有と保有って話でいうと、僕は土地を持ったり、不動産を転売するみたいなことにまったく興味が持てないんだよな。周りの人が、そういうことをやっているの見て、「ずるい」って思ったりはしてるけど。
今の話聞きながら思い出したことがあるんですけど、この前、絵と織物を作る作家さんの展示を見に行ったんですよ。織物は「テキスタイル(textile)」っていうじゃないですか。これって「テキスト(text)」と関係あるのかなと疑問に思って。校閲の仕事をしている先輩に聞いてみたら、どちらもラテン語の「テクスレ(texere)」という言葉が語源で、「織る」という意味らしいんですよね。
織物は、糸を織り合わせたものでテキスタイル。文章は、言葉や意味が織り交ぜられて構成されているからテキスト。「布を織ること」と「文章を編むこと」は、どちらも「さまざまな要素を組み合わせて、一つのまとまりを作る」という共通点があるという話で。
はぁー、面白い。
ただし、「織る」と「編む」には違いがあって、それは「ほどくことができるかできないか」なんですって。縦糸と横糸をしっかりと交差させる「織る」はほどけないけど、ループを作りながら糸を絡めていく「編む」はほどくことができる。だから、編集には「ほどく」の要素もあるのかなと。それって所有と保有の話にも通じるのかもなと思いました。
いろんな情報を編むことで新しい面を作るだけでなく、バラして再構築して違う価値を生み出すこともできる。それってまさしく編集的なアプローチだなって。
文章は元の素材を断ち切らないで組み直したりするし、本は閉じているけど分解もできるし、確かに「ほどく」って感覚は編集的かも。
作ってるときにほどくことは意識しないですよね。だけど、最後はほどける状態にしておこうと思って作るアプローチは面白いかもなぁ。
さらに話がジャンプしちゃいますけど、大学生のときに学芸員の資格を取る勉強をしていたことがあって。学芸員の方が修繕や修復に取り組む時には「可逆性」という言葉を使うんですよ。要は、元に戻せる状態で直すってことなんですけど。
もし、今よりも優れた技術が生まれたり、昔の製法に近いものが見つかったときに、その方法でやり直せるようにしておくんですって。それも保有とか、ほどくという考え方に近いような気がしました。
めっちゃ面白い話。ジモコロもですけど、記事がきっかけで人や土地を訪れて関係性が結ばれていくことってあるじゃないですか。それが記事を作って一番嬉しい瞬間かもなと思っていて。公開から何年か経って、「あの記事がきっかけで、こんなことになったんですよ」みたいな報告を受けるのってすごく嬉しいんですよね。
そんなことは意識せず、単純にワクワクしながら集めて編んだ記事が、自分を離れてすごい価値を持つことってあるよね。予想もしてなかったような出来事に導いてくれたりとか。
『編集の編集の編集!!!!』のイベントに来てくれた『ゆとなみ社』の湊くんが、初めて手に取った銭湯の本が、僕が20代の頃に作った本だったらしいんですよ。その本がきっかけで銭湯巡りをするようになって、彼らが牽引している今の銭湯カルチャーがあるって思ったら、すごいなと。そんな未来を狙っていたわけではないんだけど、知らないところで大きなインパクトを持つ可能性がある。編集という仕事は、そういう土壌作りに貢献しているのかもなという気持ちはありますよね。
それも「渡す」の話ですね。
情報を構築して「文化(ふみか)」することは、カルティベート(文化の語源で「耕す」という意味)になるんだなって。そうやって文化の土壌が耕されることによって、これまで接続しなかった人たちが入ってこられる環境が作られ、イノベーションが生まれていく。それがやっぱり編集の醍醐味なんじゃないかなって、今の話を聞いてて思った。
「課題解決の武器」としての編集の賛否

編集者になりたい人が減ってるじゃないですか。もともと、どれだけいたんだって気もするけど。もし今話していたような幅広い役割があることを伝えられたら、少しは編集者のイメージも変わるのかなぁ。
今、編集系のイベントやスクールに行く人って、企業の広報とかPRとか、消費を促す役割に編集者の技能を求めている人が増えてるなと感じていて。この差分がもったいないなと。インハウスエディターって、役割が固定されてるじゃないですか。給料は安定しているけど、会社で占有されてる状態だから、自社の商品やサービスを発信することが役割になっていく。それが社内編集と言われるような仕事なんだと思うけど。
さっき話していたような編集者像とは、求められる役割が違うかもしれませんね。
みっちゃんが昔作った銭湯の本なんて、お金にならないじゃないですか。だけど、それをやったことが、次のつながりを作る。その観点で言うと、もともとあった銭湯というものの文脈をつなぎ直すことで、湊くんという銭湯文化の担い手が現れた。そして、彼らがDIY精神で銭湯を復活させているところに若者が集まっている。これって、似た現象なんじゃないかと思うんですよね。編集も銭湯もお金が保障されているわけじゃないけど、次につながる役目を果たしているというか。
そこのバランス感覚が求められますよね。クライアントに向き合って一定の売り上げを立てながら、好きなことをやるっていうのが、中小規模の編集チームには必要なんだろうなと。大企業のなかで所有されるのではなく、外で誰とでもつながって、編んで、ほどける編集。
柿さんたちって、企業の課題に寄り添いながら、ちゃんと自分たちがやりたいと思える仕事を作るのが上手いなと思っていて。だけど、プロポーザルをやって自治体の仕事も取ってるじゃないですか。そういう仕事って、やるべきことが決まっていて、自由に好きなことをやれる余白が少ないと思うんですけど、プロポーザルや提案の方法って、企業と自治体のときで違いますか?
多分、一緒っすね。Huuuuの場合は。自治体にもちゃんと「こうしたいです」って言うようにしているし。
プロポーザルはうちもやりますけど、やっぱ難しいのは「計画をしなくちゃいけない」ことだなと思っていて。いろんな人に会うなかでコンテンツを練り上げていくのが編集者の仕事だけど、すでに課題が設定された状態でのアウトプットが求められるじゃないですか。そこを柔軟にしてくれる自治体は仕事がしやすいけど、最初から求められる答えが決まっているものって編集のしようがないですよね。
編集という行為の価値って、「やりながら考える」ところにあると思うんですよ。小さい話で言うと、ページのレイアウトは何度もチューニングを繰り返していくし、文章でも「あの人に話を聞いたけど、この部分が足りないから別の人に会いに行って補強しよう」みたいなことの連続じゃないですか。そうやって編集を駆動させていく。メディアの場合、そこは柔軟にできるけど、自治体との仕事では許してもらえないことが多いですよね。
そうっすね。僕の場合は車で5分のところに役場があるんで、こまめに行って「今こんなことやってます」って説明してますね。今まではずっと遠くの知らん土地で、知らん人の話を聞きに行っていたので、「こんなに近くの人たちを取材して、記事を作れるのめっちゃ楽やん」って思ってます。そういう距離感で編集の仕事ができるのは初めての体験なので、楽しめてるし、いいものが作れています。
なるほど。逆におもろいね、その発想は。
普通は足元からやるのに。
ジモコロで全国を飛び回って、地方に移住した柿さんならではの感覚なんだろうなぁ。

堤くんがコラムで書いていたように、「編集を課題解決の道具として考えすぎるのは、その役割を矮小化させる」という意見はその通りやなと思う反面、編集が課題解決のツールとして使える出力を持ち合わせているのは事実じゃないですか。それはそれで社会に貢献できる力なのかなと思っていて。
京都市の空き家対策プロジェクトで、レコードをディグるように中古住宅を探す『Kyoto Dig Home Project』という企画をやらせてもらったんです。編集者の榊原充大さんや、ぬえの松倉早星さんと。空き家という社会問題にアプローチとして、メディアを立ち上げて、新築神話が根強い日本に新しい価値観を伝えていく。これってあまり自治体らしくないやり方だと思うんやけど、メディアを作ってきた中で身につけてきた言葉や取材のテクニックを駆使して、社会をよくするために編集というツールを使いたいと、僕は思っていて。そういう各々のスタンスも、3人のコラムに表れていると思ったな。
その話で言うと、僕、別に書こうと思っていたテーマがあって。前回も話しましたけど、編集とは「相対化すること」が、もう一つの役割なんじゃないかと思っているんですよね。編集者がそうした視点を持ち込んで仕事やプロジェクトをもっと相対化することで、どんなポジションを目指すのかという議論がもっとされてもいいんじゃないかなって。
光川さんが話していた課題解決の話も、まさにその通りで。編集が課題解決の武器としてばかり語られるのは違う。だけど、そういう物事に向かっていく推進力やエネルギーは非常に重要。クライアント側が課題解決の期待値をどれくらい持っているのか、作り手側がここは自由にやらせてくださいという話をどこまでするのか。そこのグラデーションを、いかに見えやすくするかも編集者の仕事かもしれないですね。チーム内でも理解度に差が出てくる部分だと思うので。
そうやって相対化する時間を共にする必要もあるよね。『Kyoto Dig Home Project』では、一年間を完全にリサーチの期間に当てて、自治体の人と一緒に空き家の面白い取り組みをしている人たちを訪ねたんですよ。全国で20か所くらい。
その時点ですごい企画だ。
そうやってたくさんの事例をインプットして、様々な可能性を共有することで、相対化が働いたんだろうなとは思います。それはパソコンの前にいるだけではわからないことで、圧倒的なリアリティと対峙できる。それが編集のプロセスとして組み込まれてるかどうかによって、出力が大きく変わるんだろうなと、堤くんの話を聞きながら思った。
みんなで体験を共有して何かを持って帰るのって、全体の理解を上げるのにすごく役に立つアクションですよね。僕も一人であちこち取材に出かけるんですけど、「ここに料理人や建築家の友達がいたら地元に持って帰れるもの増えるのにな」とか思うんですよ。いろんな職種の人が一緒に行けば、持ち帰れるものが増えるし、それを自分の街にインストールできたら、そこでの暮らしがもっと楽しくなるじゃないですか。そういう遣唐使みたいなことやりたいなと思ってて。
めちゃわかる。誰と行くかによって、持ち帰れる情報量がだいぶ変わりますもんね。
遣唐使って、もしかしたら編集者みたいな役割を担ってたのかなぁ。
あー、やってること近いかもしれないですね。国や人の間に入って、新しい価値を作る人。2作目のZINEは『遣唐使の遣唐使の遣唐使!!!!』をやりますか(笑)
編集目線で見たローカルスーパーの表現

堤くんが題材にしていたスーパーマーケット、めっちゃいいテーマやなと思って。メディアって誤魔化せちゃうけど、口に入るものって嘘が吐けないから。
そうですよね。最近、コンビニがワクワクしなくなってきてるなと。だから、相対的にローカルスーパーの価値が上がってきてる気がするんだよなぁ。知らない商品を見つける喜びもあるし、肉は強いけど野菜は弱いみたいな個性が、すごく人間っぽいというか。
今住んでいる町にはローカルスーパーが一つしかなくて、そこに依存しているんですよ。最初はプライスタグもデザインされていなくて見にくいし、夏は冷えすぎてて短パンで行ったら腹壊すって文句を言ってたんですけど、店内で作っているおはぎやカツ丼がめちゃめちゃ美味いことに気づいて。お店のことを調べてみたら、免許を返納したお年寄りのために移動販売をやったりもしてたんですよね。経済合理性を無視して。そのお店がなくなったら地域の暮らしが終わるから、そこに抗う意地みたいなものをすごく感じるようになって。
コンビニって、どこに行っても同じ品揃えだけど、ローカルスーパーの棚づくりって編集的な行為ですよね。地元で美味しい野菜を作ってるおばあちゃんがいるから、それを使った惣菜を作って並べようとか。
堤くんは、なんでスーパーをテーマにしようと思ったの?
前から書きたいと思っていたテーマで。僕、京都では、今出川より南に住みたくないんです。理由は『生鮮館なかむら』というスーパーがないからなんですけど。一時期、南側の便利なエリアにしばらく滞在していたことがあったんですけど、本当に料理をしなくなって。近所のスーパーが野菜も魚も全然よくないから使えるものが限られてしまって、途端に食生活のレパートリーが減ったんですよね。そうすると、シンプルに暮らしの具合が悪いんです。
あと、京都で編集の仕事に引っかかっている人間の端くれとしては、地元の情報に詳しくありたくもあるじゃないですか。だけど、スーパーに行くと消費者としての情報しか持ってないなと思わされるんですよね。ちゃんと調べると、取り立てて話題になっていないけど、しっかり地域に根付いた商品を作っている豆腐屋とかがあるわけで。そういうものを網羅して、流通させて、消費者に届けるところまでを担っているのがスーパーなんだなと。大手は決まったものを取り扱っているけど、ローカルスーパーって地域とちゃんとお付き合いしてる感じが目に見えるので、買い物をしていて気持ちがいいんですよね。
今のローカルスーパーの話を聞いてて思い出したんやけど、地域活動家として活躍している小松理虔さんの本に「リモートの対義語はローカルだ」みたいなことが書かれていて。遠隔とか離れた場所という意味のリモートに対して、ローカルというのは地方ではなく「目の前の」とか「現場の」という意味らしいんよね。
目の前にあるものの価値に飛びついていくのが、編集の醍醐味なんでしょうね。編集って、リモートワークがしにくい仕事。どこまでいっても、土地に根差さざるを得ないというか。ローカルスーパー論から、ローカル編集が見えてきた気がする。
だいぶおもろい話だ。今日の話も阿部さんに書いてもらって、本に入れましょう! それを売るイベントをやるのがよさそう。
4人で集まって、一晩中リソグラフで刷って、本を作りましょうか。うちの事務所に裁断機もあるんで、綴じも紐でやればいけると思いますよ。
それやってみたい!
やろやろ。せっかくやったら、ほどけるものにしておきたい。
いいっすね。こういう流れでやらないとリソで本づくりってできないもんな。
30部くらいでよければ、4人で頑張れば一晩でいける気がします。
出来上がった本を、その場所で販売するイベントいいね。「明日に間に合うのか?」みたいな。
「光川さん、夜中にUFO食べてるやん」とか、リアルタイムで発信しながらね。おっさん4人の耐久リソグラフ印刷レースをフックに本を販売するっていう。
おかしいよ、釣り針が。フックにならんやろ。
第1回目のイベントが焚き火で、第2回目が本を作って売るイベントかぁ。
原始的なことばっかりやってる。
いやぁ、編集やってるなー。

WRITER

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1981年、北海道函館市生まれ。大学卒業を機に、5大陸を巡る世界一周の旅に出発。帰国後、フリーライターとして旅行誌等で執筆活動を始める。現在は雑誌やウェブ媒体で、旅行、音楽、企業PRなど様々なジャンルの取材・記事作成を行っている。東京で子育てをするなかで移住を考えるようになり、仲間と共にローカルメディア『IN&OUT –ハコダテとヒト-』を設立。2021年3月に函館へUターンをして、雑誌『生活圏』を発行した。
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