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インドネシアのパンクが生きるもう一つの道。Tasawuf Undergroundがひらく「帰り道の地図」

現在、インドネシアをフィールドに研究を行っている大学院生のANTENNA編集部 阪口が、さまざまな観点からインドネシアを「文化が息づく場所」として、身近に感じてもらうための記事をお届けしていく。本稿では、インドネシアのパンク・コミュニティの実態に目を向けつつ、その中に生きる若者たちが、イスラーム、とりわけスーフィズムの実践を通じて、どのようにそれぞれの生活を立て直そうとしているのかに迫った。

MUSIC 2026.04.21 Written By 阪口 諒祐

Tasawuf Underground(タサウフ・アンダーグラウンド:通称TU)と呼ばれる、インドネシア・ジャカルタ南郊に位置したコミュニティがある。この場所では、かつてストリート・パンクとして生きた者や、路上生活を経験した者など、社会の周縁にいた人びとが集う。彼らは今、TUという場でもう一度それぞれの生活を立て直そうとしている。小説『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』を取り上げた前回の記事では、スーフィズムがインドネシアにおけるひとつの「生き方」として息づいている現状を見た。では、その「生き方としてのスーフィズム」は、より切迫した場面ではどのように息づいているのか。本稿ではTUに集う人びとの姿を通して、その実践のかたちを見ていきたい。

TU本部の2階にある礼拝室の看板。看板の向きは、ムスリムが礼拝の際に向かうメッカの方角、キブラを示している。

1990年代以降、インドネシアのパンクはジャカルタやバンドン、ジョグジャカルタ、バリなど各地へ広がり、いまや世界有数の規模を持つシーンのひとつとして語られている。パンクと言っても音楽ジャンルだけを示しているのではなく、DIYの倫理やアナーキズム的な感覚、そして家族や学校、労働の制度からこぼれ落ちた若者たちの居場所づくりなどが複雑に絡み合いながら、シーンを形成してきた。

 

そうした文脈のなかで生まれたのがTasawuf Underground(TU)である。Tasawufは、前回の記事でも触れたスーフィズムをさす言葉で、もともとはアラビア語のالتصوف(Taṣawwuf)に由来するインドネシア語表記である。創設者であるハリム・アンビヤ氏(Halim Ambiya)が2012年に始動。ソーシャルメディアを通じてスーフィズムの教えを発信しながら、とりわけパンクの若者や路上生活者に向けた宗教的実践の指導や生活支援を行ってきた。

 

彼の実践には、社会に否定的なスティグマを負わされがちなパンクを、単なる犯罪者として切り捨てるのではなく、ひとつの生活様式であり文化でもあるものとして受け止めながら、薬物や犯罪から距離を取らせようとする姿勢がある。

Tasawuf Undergroundの時間感覚を知ること

南タンゲランにあるTUの本部を初めて訪れた日のことは、今でも鮮明に覚えている。2024年10月、Instagramで思い切ってDMを送ったところ快諾してもらい、現地には14時頃に到着した。この一帯は、行政的にはジャカルタの外側に位置しながら、実際はジャカルタ大都市圏の一角をなす、急速な都市化が進む地域である。新しい住宅地や商業施設が増える一方で、そこには大都市の中心からこぼれ落ちた若者たちの時間もまた流れている。

 

 筆者がアンビヤ氏に案内してもらった集会の様子が、TUのInstagramに投稿されている。投稿文には「YAKUZA」とあるが、インドネシアでは日本のヤクザ映画がひそかに親しまれている。もっともアンビヤ氏は、私が日本のヤクザとインドネシアのヤクザ(プレマン)を比較研究しているわけではないのだと、冗談まじりに語っている。

しかしアンビヤ氏は姿を見せず、私はそこにいた若者たちと、拙いインドネシア語でなんとか会話をつないでいた。そうして話しているうちに、TUの中を案内してくれたメンバーの一人が、かつて有名なギャング出身だったことをあまりにもさらりと口にした。聞き慣れないギャングの名や、そこで彼がしてきた活動を聞く内に、私はもうインドネシアのかなり深いところまで来てしまったのではないかと身構えた。

このあと人前で演奏する曲を確かめ合うTUのメンバーたち。パンクのスタイルをまとった彼らのそばで、私はただその場に居させてもらっていた。

けれど、その戸惑いは長く続かなかった。彼らは煙草を回し、冗談を言い合い、ときに黙り込み、メンバーのひとりは熱心にイスラームの書物を読み込んでいた。差し出された一本の煙草を吸ってみると、今までにないほどタールが重かった(あとで調べると43ミリもあった)。そんな些細なことをして過ごしながら、何が起こるでもなく、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。研究者として何かを聞き出し、成果を持ち帰らなければならないと焦っていた自分が、時間の流れの中で少しずつ場違いに思えてきた。TUを知るということは、彼らの語る言葉を集めることだけではなく、彼らの間に流れる時そのものに触れることでもあったのだと思う。

 

もっとも、その場の時間はただ緩やかに流れているだけではなかった。彼らにとって、そして多くのムスリムの人びとにとって、礼拝の時間は一日の中でも重要な区切りである。さっきまで煙草を回し、思い思いに過ごしていた彼らも、その時刻が近づくと自然に集まりはじめ、礼拝の準備を整えていく。そうした変化を目の前にして、私は彼らの時間の流れが、単なる気まぐれや緩さではなく、別の規律によって支えられていることを少しずつ感じ始めていた。アンビヤ氏が姿を見せたのは日没前の16時頃、礼拝の時間だった。

Peta Jalan Pulang(帰り道の地図)へ導く

TUの実践を支えているのは、アンビヤ氏の明確な問題意識である。アンビア氏に直接聞いた話を要約していくと、2017年以降パンク・コミュニティにいた若者やストリートチルドレンを含む300人以上が都市圏ジャカルタへ流入してきたという。その多くは、将来への不安や家族関係の困難を抱えながら、不安定な日々を送っている。アンビヤ氏がとりわけ懸念しているのは、思春期から青年期の若者たちが、そうした揺らぎの中で精神的に崩れ、衝動的あるいは暴力的な行動へと傾いてしまうことだった。

 

一方でそうした不安定さは、何もパンク・コミュニティだけのものではない。近年ではオンラインカジノの普及に加え、麻薬、貧困、ポルノグラフィ、さらには政治の腐敗といった問題もまた、若者たちを不安定な方向へ押しやる要因になっているという。だからこそアンビア氏にとってTUの実践とは、単にパンクの若者を「更生」させる試みではなく、そうした不安定さの中にある若者たちを「良きムスリム・良きインドネシア人になるための帰り道」へと導くことにほかならない。彼が掲げる「Peta Jalan Pulang(帰り道の地図)」という標語は、まさにその理念の核心を示している。

礼拝するTUのメンバーたち。礼拝はただ行えばよいのではなく、その一つひとつの行為に込められた意味を理解することが大切だとアンビヤ氏は語る。彼はその意味を、スーフィズムの実践と結びつけながら丁寧に教えていた。

では、その「帰り道」を照らすものとしてアンビヤ氏が重視するのが、コミュニティの名にも掲げられたTasawuf。すなわちスーフィズムである。前回の繰り返しになるが一般的にスーフィズムは、イスラームにおける内面の修養を重んじる実践として理解される。そこでは、人間が本来的に弱さや欠落を抱えた存在であることを認め、悔い改めを重ねながら、少しずつ善い“生”へと向かっていくことが重視される。また、思考・言葉・行動を整え、他者を傷つけるのではなく安心を与える存在になることも、スーフィズムの重要な実践として語られてきた※。

※なお、こうした自己修養や倫理的主体の形成を重視する実践は、必ずしもスーフィズムに固有のものではなく、イスラームの倫理的・宗教的実践全体に広く内在するものである。

社会へ出ること、戻ってこられること

このアンビヤ氏の理念は、説教や教育の場だけで完結しているわけではない。むしろそれらは、TUのメンバーたちが日々どのように社会と接点を持ち、どこへ帰ってくるのかという具体的な生活の中に表れている。例えば彼らが行う洗車事業はまさにその一例である。地域住民から依頼を受け、車を洗い対価を得る。そのやり取りは単なる労働ではなく、社会的にスティグマを負わされがちな彼らが、地域社会の中で形を変えて関係を結び直していく実践であるようにも見えた。

 

特にそのことを強く実感したのは、アンビヤ氏とメンバーたちの集会に参加させてもらったときのことだった。そこには、洗車事業のような明確な労働の場とはまた異なる空気が流れている。メンバーの一人は輪ゴムのようなものを弦にした簡素なギターを手にしており、信号待ちをする人々の前で演奏して、わずかな金を得ることもあった。そうした姿は、一見すると不安定な生活の延長にあるようにも見える。だが同時に、アンビヤ氏とメンバーの会話が交わされるその集会は、そうした不安定さを抱えたまま、互いにつながり続けるための場でもあった。

決して洗練された音ではなかった。けれど、そこにはインドネシアの街角で繰り返し目にする、原寸大の風景があった。街なかで音楽を奏で、日々の糧を得ることは、この国では決して珍しいことではない。彼らもまた、そのようにして毎日を生きていた。

彼らの中には住む家を持たない者も少なくなく、TU本部3階の居住スペースで寝泊まりしながら活動している。TUにおいて重要なのは、彼らを一足飛びに「まともな社会」へ送り返すことではなく、むしろ揺らぎを抱えたまま生きるための足場を作り続けることなのだと思う。社会へ出ていくための小さなきっかけを設け、同時にまた戻ってこられる場所でもあること。そこにこそ、アンビヤ氏のいう「Peta Jalan Pulang(帰り道の地図)」の輪郭が表れていた。

集会の様子。アンビヤ氏とTUのメンバーたちがそれぞれ言葉を交わす。私はその傍らで、時に会話に参加しながらそのやりとりを見守っていた。

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