
ゆうやけしはすのロック遺伝子図鑑-第3回 みの(みのミュージック)
ゆうやけしはす&すうらばあずとして活動するソングライターゆうやけしはすによる連載、『ロック遺伝子図鑑』。「過去のあの時代の音が、最新のロック」という考えに立ち、登場する人物の音楽の系譜を、生き物の遺伝子を辿るように追いかけていく。その人にとって音楽がどう鳴っているか。どう変異し、どう受け継がれてきたのか徹底解剖。第3回はYouTubeチャンネル『みのミュージック』を運営するみの氏(以降、敬称略)を取り上げる。
みののロック遺伝子
第3回で取り上げるのは、音楽系YouTubeの第一人者として独自の存在感を放つみの。YouTuberとしてカリスマブラザーズで活動したのち、『みのミュージック』を立ち上げ、音楽カルチャーをわかりやすく発信することで多くの支持を集めてきた。また、自身も「ミノタウロス」や「Polydreams」として音楽活動を行うほか、執筆、プロデュース、さらにはオーディション番組『音楽深化論』の企画・運営など、その活動は多岐にわたる。そんなみのを形作った音楽的ルーツをたどりながら、その「ロック遺伝子」を深掘りしていく。
みの

1990年10月1日生まれ、千葉県出身のクリエイター。音楽カルチャーの紹介を軸にしたYouTubeチャンネル『みのミュージック』を運営している。2017年に1stシングル“恋のチンチン電車”、2020年に1stアルバム『肖像』、2023年に1st EP『評論家が作る音楽』をミノタウロス名義でリリース。文筆家としての顔も持ち、2021年5月に『戦いの音楽史 逆境を越え 世界を制した 20世紀ポップスの物語』、2024年3月に『にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』、2025年6月に『みののミュージック』を著した。
今回は、子ども時代から中学2年生、高校2年生、20歳、エンタメYouTuberとしてのカリスマブラザーズ時代、そして現在のみのミュージックへと至るまでの変遷について話を聞いた。
各時期にどのような音楽に出会い、何に夢中になり、どのような価値観を育んできたのか。愛聴していたアーティストや作品だけでなく、その背景にあった日常や人間関係、時代との関わりをたどることで、現在のみのの活動を支える音楽的ルーツを浮かび上がらせていく。
第1章:音楽のある家庭(幼少期:2000年代前半)
現在のみのの音楽観や価値観を理解する上で、その原点を知ることは欠かせない。誰しも自ら音楽を選ぶ以前に、家庭や学校、友人関係、そしてその時代に流行していたカルチャーなど、さまざまな環境から影響を受けている。本章では、みのの幼少期に遡り、どのような文化が身近にあり、何に惹かれ、どのようにして音楽が日常の一部となっていったのかを探っていく。
現在のみのの音楽観を理解する上で、その家庭環境は欠かせない要素だ。アメリカ・シアトル生まれ、千葉県印西市育ちのみのは、幼い頃から音楽が身近にある家庭で育った。父方は音楽一家で、父はプロの音楽家ではないもののギターを巧みに弾きこなし、日常的に英語詞のシンガーソングライター作品を制作してはカセットテープに録音していたという。さらに祖父はジャズミュージシャン、祖母は声楽家、ひいおじいさんのウォーレン・ベイカーは、Bing Crosbyや Louis Armstrongのバンドでオーボエを演奏していた経歴を持つなど、音楽が代々受け継がれてきた家系だった。一方で母も熱心なロックファンだった。音楽雑誌『ミュージック・ライフ』を愛読し、Queenの初来日公演を追いかけるほどのファンであり、Cheap TrickやThe Beatlesも好んで聴いていたという。 家庭で一般的なJ-POPが流れることは少なく、みの自身はテレビで流れるSMAPや嵐、Mr.Children、スピッツ、GLAYなどを口ずさむことはあったものの、自宅では洋楽やロックがより身近な存在だったという。こうした環境のなか、みの自身も幼稚園からピアノ教室に通い、ハノンやバイエルを学んだ。しかし、音楽理論や譜読みを暗記中心で学ぶレッスンに馴染めず、小学6年生でピアノをやめている。
もっとも、当時の生活は音楽だけに向いていたわけではなかった。 ゲームは小学4年生まで買ってもらえず、地域のサッカークラブで汗を流すなど、外で遊ぶことが好きな活発な少年だった。10歳の頃には父親の仕事の関係で家族とともに半年ほどスコットランドで暮らし、現地の子どもたちとサッカーに興じたほか、当時開催されていた『UEFA EURO 2000』を通じて、ジダンを擁するフランス代表の活躍にも触れている。音楽一家に生まれながらも、音楽だけに没頭していたわけではない。自然と音楽に囲まれながら、サッカーや外遊びに夢中になる、ごく普通の少年時代を過ごしていた。そこに後の『みのミュージック』へとつながる最初の土壌があった。
第2章:ビートルズとの出会い(中学2年生:2004年)
「厨二病」という言葉があるように、中学2年生前後は、自分なりの価値観やアイデンティティを模索し始める時期だ。みのにとってもこの頃は、その後の人生を決定づける音楽との出会いが訪れた時期だった。
千葉県で育ったみのは、中学から東京の私立男子中高一貫校へ進学する。母親が東京出身だったこともあり、家庭にはもともと東京志向があったという。しかし実際に通い始めると、そこで出会った同級生たちとの文化的・経済的なギャップ、すなわち「文化資本」の差に大きな衝撃を受けることになる。
サックスを演奏し、バイオリンを習い、ジャズマスターを所有し、Wu-Tang Clanを聴いている同級生たち。一方のみのは、つい最近までカブトムシを追いかけ、ポケモンに夢中になっていた少年だった。いじめられたり孤立したりしたわけではないが、自分とは前提となる世界が違うという感覚は常につきまとっていたという。
その差は趣味だけではなかった。友人たちが鉄道模型店で数万円もするNゲージを気軽に購入する一方、自分はコンビニの肉まん一つ買うことにも躊躇する。そんな金銭感覚の違いにも戸惑いを覚えた。当時のクラスはほとんどが東京出身者で、埼玉出身者が少しいる程度。千葉県出身のみのは、どこか部外者のような感覚を抱いていたという。
学校生活に馴染めず、部活動にも所属しなかったことで、一人で過ごす時間が増えていく。そのなかで逃避先となったのがロックだった。
家にあった音楽ソフトは決して多くなかった。The Beatlesの『赤盤(The Beatles / 1962-1966)』『青盤(The Beatles / 1967-1970)』、『Past Masters Vol.2』のカセットテープ、Queenのベスト盤、globeのCD。それらを繰り返し聴くうちに、とりわけビートルズへの傾倒が始まる。後期作品は以前からなんとなく知っていたが、この頃から本格的に掘り下げ始めた。
「人生の答えはこれだ」
そう思うほどビートルズにのめり込み、音楽こそが自分の居場所だと感じるようになる。そして音楽を聴くだけでなく、自分でも演奏したいと思い始めた。
ギターを始める前には、段ボールや古雑誌を使って自作のドラムセットを作り叩いていた時期もあった。しかし教えてくれる人もおらず、一人で完結できる楽器という理由から、中学1年生の頃にギターを選ぶ。御茶ノ水で1万円ほどの入門用ギターを購入し、練習を始めた。
やがて学校の中にも音楽を通じてつながる仲間ができる。部活を辞めた生徒や、同じように学校に居場所を見出せなかった生徒たちと交流するなかで、音楽の世界はさらに広がっていった。文化資本の高い同級生たちは、ビートルズだけでなく、The Velvet Underground、ゆらゆら帝国、Run-D.M.C.、Blue Cheerといったバンドも教えてくれた。TSUTAYAでCDを借りたり、図書館で音源を探したりしながら、The Rolling StonesやLed Zeppelinにも出会う。さらにBBC制作のロック史ドキュメンタリー『20世紀ポップ・ロック大全集』を何度も見返し、ポップミュージックの流れを体系的に吸収していった。
後に『みのミュージック』で展開される音楽史的な視点や、ジャンルを横断して音楽を語るスタイルの原型は、この頃形成され始めていたと言えるだろう。
音楽だけではない。本人曰くまさに「厨二病」としてドストエフスキーや三島由紀夫を読み、『ゴッドファーザー』を何度も繰り返し鑑賞し、手塚治虫や水木しげる、ガロ系漫画にも傾倒していく。流行を追うというよりも、歴史の中で評価され続けてきた作品や文化に強く惹かれていた。
中学3年生頃になると、そうした音楽への情熱は実際のバンド活動へと発展していく。ローリング・ストーンズの“Midnight Rambler”などを演奏しながら、コピーだけでなくオリジナル曲の制作にも取り組んでいたという。メンバーから受けた影響も大きく、とりわけドラマーはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやDr. Feelgood、Chuck Berryを愛するガレージロック好きだった。そうした仲間との交流を通じて、みのの興味はビートルズやクラシック・ロックから、より荒々しく原初的なロックンロールへと広がっていった。
学校生活への適応は決して順調ではなかった。学校へのやる気はなくなり、成績も振るわず、通信簿には「1」が並ぶこともあったという。しかし、その中で出会ったロックや文学、映画、そして仲間たちとのバンド活動こそが、後のみのの人格や創作活動の土台となっていったのである。
第3章:ロックとカルチャーへの没入(高校2年生:2007年)
中高一貫校の高校へ進学したみのは、ますます音楽漬けの日々を送るようになる。ロックへの興味は広がり続け、聴く音楽の幅も急速に拡大していった。
当時は学校帰りに御茶ノ水の貸しCD店〈ジャニス〉へ通い詰めていたという。友人とCDを借り、クーポン券を集めてはまた無料でCDを借り、とにかく大量の音楽を聴く日々を送っていた。すでに王道ロックは通過しており、King CrimsonやMiles Davis『Bitches Brew』、Gongといった作品まで聴き進めていた。かなり最短距離で音楽史を遡っていた時期だったという。
〈ジャニス〉の推薦コメントや店頭の情報から受けた影響も大きかった。そこではっぴいえんどや山下達郎といった日本の音楽にも出会う。一方で当時の現行シーンにも目を向けており、Arctic MonkeysやFranz Ferdinandなどのインディーロックも自然に聴いていた。
この頃のみのの関心は音楽鑑賞にとどまらなかった。インターネット文化への興味も強くなっていく。2ちゃんねるの洋楽板を日常的に覗き、海外の音楽情報を追いかけていた。英語が比較的得意だったこともあり、『Rolling Stone』誌の「500 Greatest Albums」を読み漁るなど、海外の音楽メディアにも積極的に触れていたという。
当時はニコニコ動画やボーカロイド文化が立ち上がり始めた時期でもあった。ネットカルチャーそのものにも強い関心を持ち、掲示板文化や当時特有の過激な言説にも触れていた。一方で、まだ顔出しで活動するYouTuberはほとんど存在せず、MEGWINのような初期クリエイターが知られていた程度だった。
その後、海外ではSmosh、日本ではHIKAKINやPDS株式会社が登場していく流れも追っていたという。後にYouTubeを主戦場とすることになるみのだが、その萌芽はすでにこの頃から存在していた。
一方で、将来については現在とは異なるビジョンを描いていた。当時の目標はYouTuberでも評論家でもなく、スタジオミュージシャンだった。ギター教室では「全ジャンルを98点で弾けなければならない」という考え方に触れ、ジャズや読譜なども学んでいた。ロックを愛しながらも、当時は幅広いジャンルに対応できる職業演奏家への憧れを抱いていたのである。
高校卒業を目前にしても大学進学という選択肢はほとんど考えていなかった。学校という枠組みに馴染めない感覚は相変わらずだったが、その一方で音楽への情熱だけは揺らぐことがなかった。音楽史を貪るように学び、ネットカルチャーの誕生にも立ち会いながら、後の「みのミュージック」へとつながる視点を少しずつ獲得していったのである。
第4章:シアトルで見つけた表現(20歳:2011年)
高校卒業後、みのは大学進学という一般的な進路を選ばず、アメリカ・シアトルへ渡る。スタジオミュージシャンになるため、現地の音楽学校へ進学した。
しかし、入学後に待っていたのは想像していたものとは少し違う世界だった。エンジニア科とパフォーミング科がある中で後者を選択したものの、最初に履修した授業ではバッハのコード進行分析など理論中心の内容が続く。コードや調号を暗記し、学理的なアプローチで音楽を学ぶ日々だった。成績は決して良くなかったという。
その後も学習内容は、現代音楽やバルトーク、ジョン・ケージ、エドガー・ヴァレーズといった領域へ進んでいく。2年間にわたって専門教育を受けたものの、その過程でみののなかにはある疑問が芽生え始めていた。
「自分は本当にスタジオミュージシャンになりたいのだろうか」
20歳前後になり、それまでとは違う思いが頭をもたげる。曲を書き、自分のバンドをやりたい。音楽歴の長さを考えれば比較的遅い目覚めだったが、演奏家としてではなく表現者として生きたいという意識が、この頃から強くなっていった。
音楽学校を離れた後もしばらくシアトルに残り、音楽を中心とした生活を続けた。中古のフォードを15万円ほどで購入し、ブルースバーやロックバーを巡る日々を送る。そこではBad Companyの元メンバーのようなミュージシャンが普通に演奏しており、地元の演奏家たちのレベルの高さにも衝撃を受けたという。3時間に及ぶライブをこなし、1本100〜200ドルほどのギャラを受け取るようなセミプロの世界に身を置いていた。
そんな環境のなかで結成したのが、「The CONTESTANTS」だった。みのはこのバンドで初めて本格的なアルバム制作に取り組むことになる。
このバンドにはIan Crawfordが参加していた。彼はかつてPanic! at the Disco(SUMMER SONICなどにも出演)のツアーメンバーを務め、Never Shout Never(ビルボードトップ10に入ったことがある)でも活動していた経歴を持つミュージシャンだった。みのにとっては、自分の音楽人生における大きなチャンスに思えたという。
「このバンドが最後の勝負かもしれない」
そう考えたみのは、音楽そのものだけでなく、どうすれば作品を広く届けられるかについても真剣に考え始める。当時、YouTube上で楽曲が何十万、何百万回と再生される光景を目の当たりにしていたこともあり、インターネットを活用したプロモーションの可能性に注目していた。
その結果として始まったのがYouTubeだった。
The CONTESTANTSで本気のアルバム制作を進めながら、その宣伝手段として動画投稿を始める。そして同じ時期に立ち上がったのが、後のカリスマブラザーズである。
当初のみのにとって、YouTubeはあくまで音楽活動を後押しするための手段だった。むしろ「YouTuber」という肩書には抵抗感すらあったという。ロックミュージシャンを目指していた自分が、その肩書で見られることに複雑な思いも抱いていた。
しかし状況は思わぬ方向へ進む。The CONTESTANTSはメンバー間の問題によって空中分解してしまう。一方で、カリスマブラザーズは急速に人気を拡大し、活動開始から半年ほどでプロ化、UUUMへの所属が決まった。
みの自身はカリスマブラザーズの発起人だったものの、当初はどこか一歩引いた立場で関わっていたという。ちょうどその頃、メンバーの一人が活動を休止していた時期があり、そのタイミングでサプライズとしてみのの正式メンバー入りが発表される。みの自身もその場で初めて知らされた形だったが、「まあ、それでいいか」と受け入れ、その場でYouTuberとしてやっていくことを決めたという。
海外生活を発信するYouTuberという立ち位置は当時まだ珍しく、カリスマブラザーズは独自の存在感を持つようになっていった。
もっとも、その頃もみのの関心の中心にはロックがあった。時代的にはEDMが大きな盛り上がりを見せていたが、そうした流行を追うことはあまりなかった。一方で、Tame Impalaのような新しいロックアーティストが登場すれば自然と耳を傾けていたという。
スタジオミュージシャンを目指して渡米した青年は、シアトルでのバンド活動を通じて「演奏家」から「表現者」へと意識を変えていく。そしてその過程で始めたYouTubeが、思いもよらぬ形で人生の大きな転機となったのである。
第5章:カリスマブラザーズからみのミュージックへ
2015年頃から約4年間、みのはカリスマブラザーズのメンバーとして活動した。人気絶頂期には駅で何十人もの視聴者に追いかけられることもあり、その熱狂は映画『A Hard Day’s Night』のビートルズを思わせるようなものだったという。
当時のカリスマブラザーズは、メインチャンネルに加えてサブチャンネルも運営し、毎日動画を更新していた。メインチャンネルとサブチャンネルを合わせれば、1日2本の動画を公開するのが基本だった。常に企画と撮影に追われる日々である。
一方で、みの自身は動画編集をほとんど担当していなかった。少しでもギターを弾く時間を確保したかったからだ。活動の規模は急速に拡大していたが、当時はYouTuberという職業自体がまだ新しく、成功例も少ない時代だった。お金の使い方も、人生設計もわからない。明確なロールモデルのないまま、狂った日々を送るロックンローラーのような生活だったという。
人気が高まるにつれ、私生活にも影響が及んだ。街を自由に歩くことも難しくなり、生活そのものがコンテンツに飲み込まれていく感覚もあった。
その一方で、音楽への思いが消えることはなかった。活動の合間を縫ってミノタウロス名義での音楽活動も開始する。しかし、やがてカリスマブラザーズはメンバー間の方向性の違いから解散を迎えることになる。
2019年、みのは個人チャンネル「みのミュージック」を立ち上げる。
現在から振り返れば大きな転機だったが、当時の心境は決して前向きなものばかりではなかった。カリスマブラザーズ解散後のソロ活動は、本人の言葉を借りれば「オワコン扱い」のなかで始まったものだった。28歳での再出発。そこには悲壮感もあったという。
もっとも、最初から現在のような音楽チャンネルを構想していたわけではない。当初は何をやるべきかも定まっておらず、方向性は完全に手探りだった。音楽系YouTuberという発想自体もまだなかった。約1年にわたり様々な企画を試したが、エンタメ系動画をやろうとしても、自分の強みを活かせている感覚はなかったという。
そんな模索のなかで転機となったのが、ビートルズ解説動画だった。
マネージャーから「まずはビートルズをわかりやすく解説してみてはどうか」 と提案され、入門的な動画を制作してみる。すると、それまでの動画とは比べものにならない反響が返ってきた。
そこで初めて、自分の進むべき方向が見えた。
ロックやポップスの歴史を誰よりも掘り下げてきた知識と、長年YouTubeで培ってきた動画制作のノウハウ。その二つを組み合わせることで、自分にしかできない表現が生まれるのではないか。みのミュージックという現在のスタイルは、そうして少しずつ形作られていった。
方向性が定まると活動は大きく広がっていく。Apple Musicのラジオ番組への起用、村上隆の動画出演、『関ジャム 完全燃SHOW』(現『EIGHT-JAM』)への出演、KADOKAWAから書籍『戦いの音楽史 逆境を越え 世界を制した 20世紀ポップスの物語』出版など、活動の幅は音楽業界全体へと広がっていった。さらには桑田佳祐がラジオでみのミュージックを視聴していることを明かすなど、その存在はミュージシャンの間にも浸透していく。
こうして、かつての「海外生活YouTuber」というイメージは薄れ、音楽文化を伝える存在として認知されるようになった。
その影響は視聴者層にも表れている。動画をきっかけにビートルズやローリング・ストーンズ、はっぴいえんどといった過去の名作へ興味を持つ若い世代「みのキッズ」も少なくない。クラシックロックや音楽史への入口として機能したことは、みのミュージックの大きな功績のひとつだろう。
その影響は、音楽ファンやリスナーだけでなく、実際に作品を作るミュージシャンにも及んでいる。筆者自身もその一人であり、みのミュージックの動画を通じてクラシックロックや音楽史への理解を深めてきた。2026年には自身のプロジェクト・ゆうやけしはすの3rdアルバム『ロックンロール教団』の映画予告編風PVを制作。その主演として出演を依頼したのが、ほかならぬみのだった。音楽文化を伝える存在として親しまれてきた彼が作品世界の中心に立つことで、PVは単なる宣伝映像以上の意味を帯びるものとなった。
現在も活動はYouTubeだけに留まらない。ミノタウロスやPolydreamsでの音楽活動に加え、Date Warsでは音楽プロデュースも手掛けている。ギターウルフや林哲司といった面々が、これまで楽曲を提供してきた異色の音楽IPだ。 さらにオーディション番組『音楽深化論』の企画・出演など、活動領域はジャンルを横断しながら広がり続けている。
幼少期に家庭で自然と音楽に触れ、中学、高校でビートルズへ没頭し、音楽史を掘り下げ、シアトルで表現者としての意識を獲得したみの。そのすべての経験は、現在の「みのミュージック」へとつながっている。
単なる解説者でも、単なるミュージシャンでもない。自ら音楽を作りながら、その面白さや歴史を次の世代へ伝える存在。それが、現在のみのの到達点なのかもしれない。
また現在のみのが注目しているアーティストについて尋ねると、国内では171の名前を挙げた。関西を拠点とするバンドで、グランジやガレージパンクを感じさせるサウンドに加え、複数ボーカルによる掛け合いも特徴的だという。近年はメジャーデビューも果たしており、自身の楽曲の弾き方を解説する動画をYouTubeに投稿するなど、従来のロックバンドにはない発信方法も積極的に取り入れている。そうした「YouTube以後」の感覚やセルフプロデュースの姿勢にも共感を覚えると語った。
国外では、Joanna Wangを挙げている。中国系アメリカ人のシンガーソングライターで、その音楽性については「Todd Rundgren的」と評する。ポップスへの深い理解と実験精神が共存した作品群に強く惹かれているという。
また、オールタイムベストアルバムとしては、『The Beatles (White Album)』を選んだ。数多くの名盤に触れてきたみのにとっても、最終的に立ち返るのはこの作品だという。ジャンルや完成度を超えて、雑多なアイデアや実験精神までも包み込んだ懐の深さこそが、その魅力なのかもしれない。
まとめ — 境界のない時代と音楽
現在のみのは、ミュージシャンであり、文筆家であり、YouTuberでもある。しかし、その活動の中心にあるのは一貫して「面白い音楽を見つけ、深く理解し、誰かに伝えたい」という欲求なのだろう。
幼少期に家庭で流れていた音楽、中学時代に没頭したビートルズ、高校時代に掘り下げたロック史、シアトルで出会ったライブ文化。そして現在、みのミュージックを通じて若い世代へと受け渡されている過去の名作群。それらは単なる歴史として存在しているのではなく、時代ごとに新たな意味を獲得しながら現在へ接続され続けている。
過去の音楽は過去のものとして保存されるのではなく、現在の音楽と同じ速度で再解釈され、再配置される。その結果として、かつての音は「古いもの」ではなく、「今触れられる音」として再び機能し始める。
本連載『ロック遺伝子図鑑』は、まさにこの感覚を出発点としている。音楽の系譜を固定された歴史としてではなく、現在へと継続する変異のプロセスとして捉え直し、今鳴っている音の背後にある遺伝子を辿る試みだ。
みのの音楽遺伝子を追った今回もまた、一人の半生を振り返るだけでなく、ロックという文化がどのように受け継がれ、更新されていくのかを示す一つの事例だったのかもしれない。
次回以降もゲストを迎え、それぞれの「ロック遺伝子」を掘り下げていく。個々の記憶や嗜好を手がかりに、音楽の系譜と現在地を引き続き追っていきたい。
うやけしはす&すうらばあず ワンマンライブ
| 日時 | 2026年6月28日(日) |
|---|---|
| 会場 | |
| 出演 | ゆうやけしはす&すうらばあず / みのミュージック(DJ) |
| 料金 | 前売り ¥3,000 / 当日 ¥3,500 / U22 ¥1,500(+1ドリンク) |
| チケット |
これまでの「ゆうやけしはすのロック遺伝子図鑑」
この連載について(過去の音が、最新である)
ロックは死んだ、とよく言われる。
しかしそれは正確ではない。ロックは死んだのではなく、時間から解放されたのだ。
かつては違った。1960年代、The Venturesの音を聴いて、日本中の若者たちはギターを手に取った。さらに数年後マッシュルームヘアーのThe Beatlesという若者たちが、世界の音楽地図を塗り替えた。日本も例外ではなく、その熱狂はグループサウンズという形で土着化した。70年代にパンクが出ればアンダーグラウンドの不良たちは飛びつき、80年代にヘヴィメタルが爆発すれば速弾きの美学が世界を覆い、90年代にグランジが鳴り響けばその轟音は数年遅れで渋谷や下北沢の路地裏にも届いた。当時の最新を真似ることが、最先端だった。ロックはつねに「今」に向かって走っていた。
その図式が崩れたのが、おそらく2000年代だ。
最後の共通語、という言い方をしてみるがそれは1990年代のNirvana、Oasisであろう。少しおまけをしてもThe Strokes、Arctic Monkeys。このあたりまでは、ロックを聴く人間ならば誰もが知っている「みんながわかる言葉」として機能していた。「あの曲」と言えば話は伝わった。
それ以降のロックは意義を失い、ポップスやヒップホップ、EDMに飲み込まれ、2020年代、グローバル化の波に乗ってBad Bunnyが世界を席巻しようともそれはスペイン語のラテン音楽であり、誰もその楽曲を口ずさむことすらできない。日本に目を向ければ、かつての共通言語であったオリコンランキングは秋元康にハッキングされ、もはや誰の羅針盤にもなっていない。米津玄師やMrs. GREEN APPLEのような存在をロックに含めない限り「みんながわかる」という意味での最新のロックは、もう生まれていない。
だが、ここで終わらないのが面白いところだ。
インターネットが、時間をフラットにした。YouTubeがあり、SpotifyやApple Musicがある。1967年の『The Velvet Underground & Nico』も、1971年の『風街ろまん』も、1977年の『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols(勝手にしやがれ!)』も、1991年の『Nevermind』も、2005年の『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』も、2007年の『空洞です』も、すべてが等距離に並んでいる。現在のYouTubeの音楽チャンネルの中では、おそらく最も共通言語として機能しているであろう『みのミュージック』の名盤ランキングを眺めれば一目瞭然だ。若い世代の「あこがれ」は、過去にある。過去の音こそが、今の耳には新しく聴こえる。
つまりこういうことだ。
過去のあの時代の音が、最新のロックなのだ。
この連載『ロック遺伝子図鑑』は、その前提に立つ。あの時代の音楽が現在どう鳴っているか。どう変異し、どう受け継がれ、どこで枝分かれしたか。音楽の系譜を、生き物の遺伝子を辿るように追いかけていく。今のバンドや音楽を解剖しながら、その血筋を過去へと遡っていく。そして何度も「終わり」を告げられながら蘇ってきたロックを、いま再び、我々の時代に呼び戻そうではないか。
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WRITER

-
1960年代クラシックロックのサウンドに、現代的な視点の歌詞を重ねることで、“懐かしいのに新しい”音楽を生み出すプロジェクト、ゆうやけしはす。すばらしかのキーボードとして活動していた林祐輔が、ソロプロジェクトとして始動。
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最終的な目標は、ロックンロールそのものを現代において再定義し、その頂点であるビートルズを更新すること。なお、「ゆうやけしはす」という名前は、本名・林祐輔のアナグラムである。
