
自己同一性。いや、それより先立つもの 『ミッキー17』―考察しない映画評 #4
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「書を捨てよ、町へ出よう」というのは寺山修司の代表的なギャグですが、今日はそういう話をします。題材となる映画はポン・ジュノ監督の『ミッキー17』です。
諧謔みあふれるSF作品。いつ観ても面白いんだけど、流行り廃りもあるだろうから、もしまだの人がいたら早めに観て欲しい一本です。
『Mickey 17』(2025年)
映画、テキスト、考察——。
世はまさに大考察時代!
しかしながら、吐きそうなくらい中途半端な品質の「考察」がネットの海に捨てられているのが現実だ。いっそのこと「考察」とやらを手放して、極めて私的な感想文を書き綴れ! というのがこの連載の趣旨である。
「俺の主観か?欲しけりゃくれてやる。探せ!!!!」
古き良き、かつ新しい「自己同一性」という問い
最初にネタバレをしておくと、主人公のミッキーは二人に増殖します。既存の「17」と、新たに複製された「18」です。
この作品は、人間の記憶や形状を完全に保存して、ミッキーが死亡すると新しい彼を再出力する技術を前提にしています。
ミッキーが死んだらミッキー2をプリントし、2が死んだら今度は3。そんなこんなを繰り返してついに数字は17に到達。死んでもすぐに作り直せるから、危険な任務にだって軽い気持ちで派遣させられてしまいます。いわば将棋の「歩」みたいなもんです。望みの薄い人体実験も、危険な宇宙船外作業もなんでもかんでもやらされてしまう。唯一のタブーは二歩。「一度に存在できるミッキーは1体のみ」というのが約束事です。
30歳を過ぎて、ぼちぼち映画を見慣れていると、良くも悪くもその後の展開にはすぐに気がつく。
「あーこれミッキー殖えるわよ」「わざわざタイトルで “17” って言ってるんだからアンタ、それ以外の数字が来ないわけないじゃない」
「殖えるよ〜? これ絶対殖えるよ〜? 殖える、はい、殖えた!!!!」
さながら万引きGメンである。
「あなたその展開、レジ通してないですよね?」
「いえ、あの、これ予告とかでまあまあ言ってますけど」
「あ、そう?!ごめん、予告あんま見ないから」
……というわけで、この展開までは大前提。
当然ここから「情報を複製した人間は、元の人間と同じなのか?」「複製品である自分は、本当の自分なのか?」という問いに発展します。
壮大なテーマではあるものの、特別新しいものではありません。SFの中ではからあげ弁当くらい定番メニュー。定番だから続いてるんですよね。ブレードランナーしかり攻殻機動隊しかり、もっと遡れば80年くらい前から存在するジャンルです。
それでもなお複数のギミックで想定を上回り裏切ってくれるポン・ジュノは本当にありがとう。逆にここまで普遍的なテーマで新鮮味のある映画を作るなんて!!!
※また、本作は実は自己同一性だけがテーマではない。政治や資本主義・植民地主義など、いくつもの大玉に齧り付いては飲み下している。すごい。すごいぞポン・ジュノ!
もはや十分ありえる世界に
“記憶や人格の複製による自己同一性の危機” というテーマは普遍的なものでしたが、近年少しずつ変容してきています。変わったのは作品ではなく私たちの現実の方です。
というのも、クラシックなSFでは「悪役」がいきなり襲ってきて勝手に頭をコピペしてくるのが常でした。ぶん殴られて気絶して、気づいたら謎の装置に寝かされて……みたいな。「悪い科学者」とか「ありえない倫理観の企業」とかがいるわけです。
しかし2020年代後半において、記憶や人格の外部化に私たちは積極的に取り組むようになりました。勝手に判断してくれる方が楽だから、という理由で、喜んで情報をAIに食わせている。外部化の悪役が不在なのです。(シリコンバレーが黒幕と言うのならば、まあそれはそう……)
「自分の複製」は非現実的な黒幕をでっちあげないと成立しない思考実験ではなくなりつつあります。
2025年の公開当時はそこまででもなかったのですが、配信で見返す頃になったら全然手触りが違う。「あるな〜!」「いやこれ全然ありえるな〜!」などと思いながら眺めていました。
私の世界は五十音
ここからは私ごとですが、私は言葉を過度に信用しています。信仰と表現してもよいでしょう。言語を駆使して捉えられないものはない。言葉こそがその輪郭をかたちづくっている。呆れられるかもしれませんが、本気でそう信じています。
「言葉では表現できない感覚がある」「言語化することで溢れてしまう意味がある」という反証も理解できますが、そうした主張もすべて言語で伝達されているではありませんか。ノンバーバルなコミュニケーションも最終的には頭のどこかで無意識に理解可能な言葉に置き換えられて処理される。(巷では言語化ブームも一周回ってひっくり返り、言語化冷笑ムーブにまで反転しているけれども、両者ともに私の敵ではありません。勝手にやっててください)
少し話が逸れましたが、私が私であるための要件を全て言葉で書き切って、それを学習した機械が現れたとして、それは私なのでしょうか。
い〜〜や違う! とか言いそうな素振りを見せていますが、答えはYesです。AIの性能が良くなり、本当に100%私と同じアイデアや感性を模倣してくれるのであれば、それはもう「私」でよいと思います。もちろん肉体は持ってなくて構わない。
文字の手前にある一次情報
いや、ちょっと待って。すごい勝手な妄想だわこれ。こちらに肉体があるからこそ余裕こいてるけど、生成された「奴」もとい「私」に肉体があったら戸惑うかもしれない。奴に肉体があれば、奴は勝手に動き回る。私の知らない本を読み、私の知らない人と出会うとすれば……。
つまり人間を形成するのは文字情報ではなく一次情報だったんですよ。言葉はあくまでも媒体であり、それそのものではない。
数ヶ月も経ってしまえば、奴は複製ではなく分岐した「別バージョン」になってしまうのではないだろうか。私の知り得ないインプットを浴び続け、次第に判断軸が変わりはじめる。その差分は広がってゆき、私には考え付かなかった価値観を見つけてそれを大切にしはじめる。私の「こうあって欲しい」を逸脱して制御不能になってゆき……。
あれ、やっぱこれもちょっと待って、これなんか全員が通るただの子育ての話かも。
「こういう子に育って欲しい」というまっすぐに歪んだ愛情から、自分の好きだったコンテンツや、自分の得られなかった体験・教育を注ぎ込む。その上で、子は親の気持ちをガン無視してあらぬ方向へつき進む。公務員になって欲しかったのにギタリストになったり、ギタリストになって欲しかったのに公務員になったりするもんである。うん、これ子育ての話でしたわ。終了終了終了解散!
そういうわけで「書を捨てよ、町へ出よう」です。いや書は意地でも捨てませんけど。
▼余談のさらに余談
映画.comを見ながら「なんか忍たま乱太郎の実写やってるやん!!ダル!!」と思ったらこの映画でした。(遠目で見てみて)
これまでの「考察しない映画評」
- #1 煌びやかな非日常ではなく、役所広司が見せる地味でつまらない丁寧な生活『すばらしき世界』
- #2 「やり尽くし」の限界を突破する、94歳のイーストウッド『陪審員2番』
- #3 相対的に考えたらさ、この先人生ずっと老いてるくない??『サブスタンス』
この連載について
映画、テキスト、考察——。 世はまさに大考察時代!
しかしながら、吐きそうなくらい中途半端な品質の「考察」がネットの海に捨てられているのが現実だ。いっそのこと「考察」とやらを手放して、極めて私的な感想文を書き綴れ! というのがこの連載の趣旨である。
「俺の主観か?欲しけりゃくれてやる。探せ!!!!」
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WRITER

- コラマー
-
宮崎駿と親交が無い。マジで一切ない。
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