【実は知らないお仕事図鑑 P7:アーティスト】 副産物産店・矢津 吉隆 / 山田 毅
アーティストは、その技術によって美しい作品を生み出すだけではなく、作品を通じて、鑑賞者や世の中に問いを示すものであるはずだ。時には、私たちが気が付けずにいる世の声に耳を傾け、そっとすくい上げて、価値がないものに価値を見出したり、既存の価値を再編して新たな価値を創造したりする。そんな彼らは、どんな視点で世界を見ているのだろうか。
アーティストのkumagusukuの矢津吉隆さんと、只本屋の山田毅さんは、副産物産店の活動を通じて、アーティストの制作過程で生まれる端材など本来であれば捨てられてしまうものを副産物と定義し、アップサイクルを行いアイテムとして販売することで、アーティストの営みに新しい循環を生みだす試みを行っている。なぜ主産物ではなく、副産物に価値を見出すのか。それは、アートの市場から離れた場所でキャリアを積んだ二人の、市場経済に囚われている美術業界に対するカウンターなのかもしれない。
矢津吉隆プロフィール
美術家、kumagusuku代表、株式会社kumagusuku代表取締役
1980年大阪生まれ。京都市立芸術大学美術科彫刻専攻卒業。京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)非常勤講師、ウルトラファクトリープロジェクトアーティスト。京都を拠点に美術家として活動。また、作家活動と並行して宿泊型アートスペースkumagusukuのプロジェクトを開始し、瀬戸内国際芸術祭2013醤の郷+坂手港プロジェクトに参加。主な展覧会に「青森EARTH 2016 根と路」青森県立美術館(2016)、個展「umbra」Takuro Someya Contemporary Art (2011)など。2013年、AIRプログラムでフランスのブザンソンに2ヶ月間滞在。アーティストのアトリエから出る廃材を流通させるプロジェクト「副産物産店」やアート思考を学ぶ私塾「アート×ワーク塾」、古民家をスタジオとして改修して貸し出す「BASEMENT KYOTO」など活動は多岐にわたる。2020年5月31日(日)に<KYOTO ART HOSTEL kumagusuku>を閉業し、新たに自宅のガレージを改修したスペース<kumagusuku SAS>を副産物産店の拠点としてオープンした。
山田毅プロフィール
美術家、只本屋 代表
1981年東京生まれ。2003年武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科卒業。現在、京都市立芸術大学大学院博士後期課程在籍。 映像表現から始まり、舞台やインスタレーションといった空間表現に移行し、ナラテイブ(物語)を空間言語化する方法を模索、脚本演出舞台制作などを通して研究・制作を行う。2015年より京都市東山区にて「只本屋」を立ち上げ、京都市の伏見エリアや島根県や宮崎県などで活動を広げる。2017 年に矢津吉隆とともに副産物産店のプロジェクトを開始。現在、作品制作の傍ら様々な場作りに関わる。
副産物産店インフォメーション
住所 | 〒602-8126 京都市上京区椹木町通日暮東入中書町685-2 kumagusuku SAS |
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電話番号 | 075-432-8168 |
メールアドレス | byproductsmarket@gmail.com |
営業時間 | 現状イベントでのみオープンしています。SNSなどをご確認ください。 |
オンラインストア | |
各種SNS | Instagram:https://www.instagram.com/fukusanbussanten/ Facebook:https://www.facebook.com/byproductsmarkets/ Youtube:https://www.youtube.com/channel/UCZk-9_DYJQWUraAthKFSkhA/ |
クラウドファンディング | 2020年7月31日(金)まで |
副産物産店でものの価値を考える
副産物産店を主催するお二人にお伺いしたいのは「ものの値段ってどうやって決められるのだろう?」ということです。価値の転換を行う副産物産店の源泉となる考え方はどのようなものなんだろうって。
僕は学生時代から美術の世界で生きてきたので、美術作品の価値の決められ方をずっと見てきて、ものの価値について常に疑問を持っていました。すごくいい作品を作るのにマーケットで評価されない作家もいる一方で、売れる絵を割り切って描いちゃう人もいます。だからと言って売れていない絵が悪いわけでも、売れている絵がいい訳でもない。作家としては常に「売れるための作品を作った方がいいのか。いや、売れなくても面白い作品を作ればいいんだ」という葛藤の中でずっとやってきました。
そこから一旦離れられたのは、kumagusukuを始めてからです。kumagusukuでは一泊の値段が決まっていて、その中でどういう価値を提供していくのかに向き合いました。美術に価値を見出している人は、作品と一緒に泊まれることを安いと感じるようですが、宿泊施設としてkumagusukuを評価する人の中には、高いと感じる人もいるようです。同じサービスを提供しているのに、どこに価値を感じるかでかなりの違いがあるなと気付きました。美術って結局、いかに付加する価値を社会的に承認していくかなんです。
社会的に承認されるというのは、どういうことでしょうか?
見た目は同じ絵でも、海外の◯◯という賞を獲ったアーティストが描いた絵と、無名のサラリーマンが趣味で描いた絵では、値段の付き方が違いますよね。
美術やクリエイティブの世界のものの価値は証明するのが難しいし、その差は目に見えない。「これは500万円の値が付くのに、なんであれは100円なんだ」っていう、すごく漠然とした世界なんです。それと、僕らは成功者ではないと思っていて。世代的にも就職難の時代で、ロストジェネレーション世代なんて呼ばれていますが、美術の文脈でもスターと呼ばれるアーティストがいる中で自分の立ち位置を模索してきて、自分と他者を比較してきたから、価値の差についてはずっと考えてきました。
アーティストとしての価値を高めるには、大きな賞を獲るなどのキャリアの積み重ねが王道だけど、それ以外にも誰もやったことがないことをやることで、希少価値が付きます。僕が思うアーティスト活動の面白さはそこにあると思っていて。長い歴史の中で、アートの文脈も少しずつ変化していて、ターナー賞を建築家集団・Assembleが受賞したり、時代の変化と共にグレーゾーンも広がっているんですよね。世の中に問いを投げかけるだけでなく、地域コミュニティを再生させる仕組みを実現させた彼らの活動がアートとして認められるようになった。そうやって文脈が変化していくことで、アーティストの営みに新しい循環を生み出す副産物産店の活動もアートとしての価値が見出されたんだと思います。
ただ、僕も矢津さんもそうだと思うんですが、作品が売れいてたら、こういう試みは生み出されていないと思いますし、時代的な背景もすごく大きな要素だと思います。
アートって負のエネルギーが原動力になることが多くて、マイノリティーの人の表現が強いと言われています。僕らアーティストが広く認められている世界じゃないからこそ、アートの価値ってなんだろうと考えざるを得ない。副産物産店のアートのあり方として、ゴミとか捨てられる存在になっているものに愛着を持ったり、そこから何か生み出せないかという考えが出発点になっています。みんながアートが素晴らしいものでみんながその価値を理解している世界では生まれてこないプロジェクトでもあって、アートプロジェクトっぽいプロジェクトですよね。
副産物産店の活動も、マイノリティーの表現ということですが、どのように今のような価値観が形成されていったのか、学生の頃のお話を振り返って聞かせていただいてもよろしいでしょうか?
アーティストとして成功する道しか考えていなかった
僕は京都市立芸術大学に一浪で入って、美術科の彫刻専攻で4年間学びました。今となっては早熟な方だったと思いますけど、同級生が結成したAntennaというアーティストグループに入って、3回生の冬くらいから卒業後も3年くらい活動していました。就職活動もしなかったですし、学生の延長で社会人になったような感覚で、アルバイトをしながらアーティスト活動をしていました。金氏徹平さんや名和晃平さんのような偉大な先輩方の背中を身近に見て、頑張って名を馳せてやろうという野望が強くありましたね。就職氷河期でしたし、自由に生きてやろうという気持ちがあったと思います。
身近な先輩がロールモデルだったんですね。彫刻専攻では主にどんなことを学ばれていましたか?
現代美術を学んでいましたが、具体的な技術というよりは考え方を学ぶことが多かったですね。でも、もともと僕は漫画やアニメ、映画などのサブカルチャーが好きで芸術大学を目指したので、大学に入ってから学校外の友達と青春映画を撮ったり、Flashというソフトでアニメーション作品を作ったりしていました。「アートとは何なのか」を悶々と悩みながら、漫画を描く日々で。当時はゼミ制度もまだなくて、だからこそ、自分の好きなことをやっていました。何がアートだって決まりもないので、僕は漫画のネームを提出して単位をもらったりして。
その自由な環境は矢津さんには合っていたんですね。
現代美術のど真ん中の専攻にいたので、先生方と先輩方の中にいると自分が劣等生に感じるわけですよ。美術談義したり、今年のベネチアビエンナーレはどうだ、みたいな話は当時はキラキラ聞こえていました。どこのギャラリーで作品が売れた、ということがアーティストの価値になっていて、僕は作品が売れていたわけではなかったし、売れることが価値を決めると思っていなかったので、居心地はよくなかったですよ。
芸術家としてのステータスというか。そんな中で就職先もなく、不安はなかったですか?
不思議と不安はなかったですね。自分の居場所が違うことはわかっていたけど、自分が一番面白いことをやっているという自信はあったりしたから。不安になり始めたのはAntennaから独立して、ソロでアーティスト活動をし始めてしばらく経った30歳手前くらい。グループとしてそれなりに美術の世界で活動していたけど、自分でキャリアを作らなきゃいけなくなって、予備校でデッサンを教えるアルバイトをしながら活動してた時ですね。
その不安はどうやって突破されたんですか?
不安は先に進むことでしか消えないです。やっぱり作品が認められたり、賞をもらったり、作品が売れたりとかして認められると心は楽になりますけどね。
kumagusukuだったり、自分の作品が社会に認知され始めたからですか?
kumagusukuを始めて社会との接続ができ始めて、僕という人間に対する評価がアートだけではなくなったことで一気に変わったかな。Antennaをやめてkumagusukuを始めるまでの間は、アーティスト矢津吉隆として成功しようとしていました。今考えればそれは強迫観念めいたことだったのかもしれないけど、アーティストで成功しなきゃいけないっていうプレッシャーがあったというか。
自分と作品が中心の世界から、人と向き合うように
kumgasukuを始める前後で、どのような変化があったのでしょうか。
ソロでアーティスト活動をしていた時、やっぱり本場のアートを学ばなければいけないと思って、ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツに留学を考えていました。合格はしたものの奨学金が通らなくて、高い学費を祖母から借りたり、向こうでどうにか工面しようとしていたけど、「あれ、このまま行くのか?」とその時が一番不安になりました。その時、仕事を辞めて同じように悩んでいる友人から連絡が来て、男二人で沖縄に行ったんですが、その旅行がkumagusukuのアイデアを思いつくきっかけになりました。
一週間くらいゲストハウスに泊まりながらなんでもない時間を過ごしていたのですが、僕たちが泊まった宿にはギャラリーが併設されていて、屋上ではBBQとかライブもできて、こういう場所って純粋にいいなと思ったんですよね。それで京都に戻ってから、大阪のデザイン事務所UMAの原田祐馬さんに相談したら、瀬戸内国際芸術祭2013のアートプロジェクトのディレクターをされていて、僕も声を掛けてもらって、kumagusukuの前身となるプロジェクトが始まりました。
沖縄の旅行が転機になったんですね。旅をする中で、普遍的な楽しさに気付いたのでしょうか。
「人間って何なんだろう?」と考えるようになりました。美術でキャリアを積んでいくことを考えると、人よりも作品を中心に物事を考えるようになっていて、人に向き合っていなかったなと思ったんですよ。ゲストハウスって生身の人間と向き合うことになるし、人って何なんだろうと考えるきっかけになった。自分の作品であったり活動が、どういう風に人に影響を与えるのか、どう思ってもらえるのかという人に対するアプローチを考えた時に、僕の中で投影できたのがアートホステルという形態でした。
アーティストってジレンマを抱えた存在だと思うんです。本音では資本的な部分から解き放たれたいと思いながらも、そこで価値を認められないとご飯が食べられない。矢津さんがもともと囚われていたキャリアも資本的なアートの世界に介在していく行為でしたが、kumagusukuの取り組みで社会的な接点を多く持てたことで、経済的な価値以外の価値観を得られたということですよね。
その通りだと思います。作品が認められて売れるとか、それによって展覧会に呼ばれてフィーをもらえるとか、資本という言い方でいうと、作品とお金には密接な関わりがあります。ゲストハウスでお金を回せるようになると、作品とお金に距離ができて、自由さに繋がった。作品以外の部分でマネタイズできるので、アートと向き合いやすくなりました。今思えば作品の形態自体も自由になっていって、kumagusukuや副産物産店自体が作品だと言っていいんじゃないかというスタンスになれたのは大きい変化ですね。Antennaをやめてすぐの状態だったら、副産物産店のアイデアを思いついても作品とは呼べなかったと思うし、プロジェクトとして育てられなかったかな。
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面白い道はどっちだ?カウンター精神で選んだ美術の道で演劇に出会う
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離れてわかる地元のありがたみを感じる道産子です。移動が好きで、わりとどこでも生きていけます。踊るのが好き。KPOPはARMYでN市民でEXO-Lす。
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