【漫画で読み解くストーリー:第5話】『チェンソーマン』に見る読者との現代性の共有
イラスト提供:中田アミノ
藤本タツキ先生の『チェンソーマン』は現在集英社の「週刊少年ジャンプ」で連載中の作品です。ゆえに今回のコラムでは先日発売された最新7巻までの内容を対象とします。(続きは「ジャンプ」で!)
旧来のヒーロー像にリアリティがなくなった現代
皆さんはヒーローってどんな人を想像しますか?清く正しい人?世界の平和を守る人?誰よりも優しく、誰よりも強い人?
確かにこれらはヒーローの大事な要素として、少年誌ではあらゆるバリエーションで主人公を生み出しています。だけど最近では、それは読者である僕らに勇気を与えてくれると同時に、リアルから逃避する夢想としての一種のテンプレートに過ぎなくなっているような気もします。
今までも数々のヒーローを生み出してきた「ジャンプ」が、今回取り上げる『チェンソーマン』のような最先端のヒーローのイメージを打ち出してくることに、少年マンガを常に更新してきた底力を感じます。またこの作品が多くの読者に支持されている状況を見ると、今後のヒーロー像に大きな影響を与えていくのは間違いないでしょう。
では『チェンソーマン』のヒーローマンガとしての現代性はどこなのか?以下のポイントをもとに検証していきたいと思います。
- 主人公のデンジを含め、ほとんどのキャラクターが利己的な理由で戦っていること。
- キャラクター達の軽薄さ、視野の狭さ。
- 描かれる悪の捉え所のなさ。無茶苦茶なスケール感にもかかわらず被害描写の希薄さ。
- 頭身高めの青年誌寄りの画風。画力の高さ。確かな演出を駆使する漫画力の高さ。
- 過剰にスカムでゴアなシーンの多さとドライな空気感。
『チェンソーマン』が提示する現代のヒーロー像
ポイント1に関してですが、成長を見込める主人公なら戦いに身を投じる最初の動機が「自分が楽しくなる事」「女の子の胸を揉む事」程度であることも、よくある描写ではあります。そうした主人公はやがて自分の力と仲間との絆から、より大きな使命感と責任感に目覚め人間的に成長していくのが定石です。しかし『チェンソーマン』のキャラクターはほとんどそのような大きなヴィジョンを持つ事はありません。それでも主人公デンジはある程度の純粋さと優しさを持っていて、自分の感情の在り処に対して疑問を持つなど人間的成長へのポテンシャルは感じられるのですが、一つ明確に表現されているのが「正義への献身」の欠如です。
このようなヴィジョンの浅さはポイント2のキャラクター達の軽薄さとして描写されています。彼らにとっての最大の関心事は仕事をこなす事、そして生き残る事。実は彼らは決して頭が悪いわけではありません。深く考えてもしょうがないから軽薄なヴィジョンで人生の帳尻を合わそうとしているのです。ここにあるのはブラック企業の搾取をベースとした強固な格差社会の構造です。3巻で生死を賭けた必死の作戦を終了したあとの、新人歓迎会におけるあまりにスケールの小さい飲み会シーン。もはや出世は意味のあるものに思えず、自分の仕事の意義も「やりがい」にはなり得ないような、閉塞感あふれる現代の若者の心情をリアルに汲み取っている描写であることは間違いないでしょう。
現代のような腐敗と差別が横行する世の中において「正しさ」とは何なのか、今の十代は果たして実感が持てるのでしょうか?「正しさ」が明確に定義できる健全な社会があって初めて「悪」の存在も明確になります。しかし昨今の不安定な社会情勢に加え、9.11テロ、東日本大震災における原発事故、そして現在のコロナの疫禍に至るまで一瞬思考停止に陥るほどのスケールの大事件が起こり、十代の若者達はそれらの恐怖を味わいながら同時に明確な「悪」の断罪を見る事なく生きてきています。この災禍のスケール感とそれに対する捉え所のない恐怖は庵野秀明監督の映画『シン・ゴジラ』にも感じるところですが、それがポイント2で述べたような半径3メートルの世界を必死で生きる若いデビルハンター達の視点で描かれる事で、被害状況から本来描かれるべきである「怒り」や「悲しみ」すら我々読者は剥奪されている、というわけです。
このような現代性を持った新しいヒーローを藤本タツキ先生は若さゆえの「臭覚」だけで書いているのでしょうか?僕はそうは思えません。ポイント4であげたような、まるで青年誌のようなリアルな人物造形とデッサン力、6巻のレゼとデンジの交流における王道とも言える確かな演出力、これらは前作『ファイヤーパンチ』での様々な演出の実験を経て、『チェンソーマン』ではっきりと現代性を持ったストーリーにフィードバックしようとした藤本先生の意思と冷静さを感じます。担当編集者の力もあろうかとは思いますが、テンプレートのストーリーに迎合する事なく、絶対に他の人に描けない、誰も読んだことのないマンガを描こうという気概とそれを実現する胆力は並々ならぬ実力で、上記のポイント1,2,3の考察はこの4に見る藤本先生の画力と演出力によって読者に説得力を持って届けられているのです。
もう最近は少年マンガといえども内臓ドロドロや四肢切断などのゴア描写は珍しくありませんが、それらは作中において罪なき人々、愛するもの達の死に様をことさら無残に表現して読者の「悪」への恐怖と怒りを増幅させる表現として機能してきました。ポイント5であげた『チェンソーマン』におけるゴア描写は「悪」の存在が希薄である以上、読者には持っていきようのない殺伐感しか残りません。その死屍累々の世界が表しているのは、ただただ醜悪な現代の閉塞感なのかもしれません。
週刊連載のストーリーは時代を敏感にキャッチして変節していく
以上5つのポイントを元にストーリーを紐解いていきましたが、こうやって書くとあたかも『チェンソーマン』というマンガ自体が閉塞感に満ちた救いのないヘヴィーな作品のように思われるかもしれません。
しかし読後感は逆です。デンジの深く考えないがゆえの爽快感あふれる活躍。難しいことを考えずにまるで愉快なバイトのように危機を乗り越えていく仲間達。思わず笑っちゃうような主人公達の単純さ。劣悪な世界において軽薄さを武器に軽妙に生き抜く彼らの姿には、応援したくなるような親近感を感じます。
なぜならそこには「正義」をテンプレとした嘘がないからです。血みどろの格差社会を生き抜く知恵をそこに感じるからです。
マンガは旬のメディアです。特に連載作品においては毎週編集者との打ち合わせが行われ、その都度読者からの反応がフィードバックされます。キャラクターの人気投票でもなぜそのキャラクターが人気あるのかが分析され、場合によってはその後の登場頻度にも影響が出ると思います。それほど読者と近いところで作られているストーリーが、時代性に即応していくのはそれほど意外な事ではないでしょう。
しかし、同時に長い連載はその即応性ゆえに常に読者の指向に合わせてストーリーが変節していく可能性も内包していきます。『チェンソーマン』もまた、6巻までにおいて以上のような現代性を読者と共有してきました。
最新7巻ではあたかも映画『キル・ビル』のような異能者バトルロイヤルに突入し、ここからこの作品が真正のヒーローマンガへ向かっていくのか、あるいはその現代性を持って想像もできない展開になるのか、それは僕にはわかりません。ただ確実に言えるのは、そのベクトルを示唆するのは読者であり(それがジャンプのマンガの宿命ですから)、今後の時代の空気である事、そして藤本タツキ先生はそれに対する敏感なアンテナと自分のフィールドで消化するテクニックを持っているという事でしょう。
藤本タツキ先生の天才的なその能力が現状7巻にしてすでに今後のマンガ業界へ影響を与えていくのもまた間違いないところだと思うのです。
『チェンソーマン』の今後の展開に大注目です!
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WRITER
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石川俊樹プロフィール:1962年東京生まれ 大学卒業後浦沢直樹先生のアシスタントを2年勤めた後、マンガ家兼アシスタントとして業界で働く。現在名古屋造形大学造形学科マンガコース准教授。バンド「フラットライナーズ」Ba/Vo
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