【カルト映画研究会:第9回】華氏451(Fahrenheit 451)
SF映画でしばしば使われるサブジャンルの「ディストピア」。理想郷を意味する「ユートピア」の対義語である「ディストピア」は、誰もが「こんな世界になったら嫌だなあ」と思うような絶望に満ちた世界の描写が特徴だ。
『華氏451』が描く、望んでしまったディストピアとそのリアリティ
フィクションとして描かれるディストピアには大きく分けて2種類ある。
一つは大衆が明らかに理不尽な形で抑圧されている世界。この世界では人々は不満や怒りを内に秘め、ひたすら理不尽な状況を耐え忍びながら生きている。世界の管理は権力者の力によってあからさまに行われており、抑圧された大衆はその不満や怒りを共有しているものの、抑圧者に対抗し得る力や策を持ち得ない。したがって革命の地盤が潜在的に整っている世界で、『マッドマックス』のようにヒーローが抵抗の象徴として登場することはそのきっかけにすぎないとも言える。
そしてもう一つはそこがディストピアとは気づかずに大衆が自ら望んでしまった世界。今回、取り上げる『華氏451』はこちらが舞台だ。
『華氏451』は1966年に作られたフランスヌーヴェルバーグ映画の巨匠フランソワ・トリュフォー監督のキャリア唯一のSF映画であり、原作はこれまたSF小説界の巨匠レイ・ブラッドベリ。タイトルは紙の燃える温度を表し、それすなわち「本」が政府によって禁止されている焚書の世界を意味している。
かつて消防士を意味していた「ファイアマン」はこの世界では禁止されている書物を探し出して焼却する警察のような存在として描かれる。ストーリーは「ファイアマン」である主人公モンターグがある時クラリスという女性と出会い、徐々に自分の任務、ひいてはこの世界に対して疑問を感じるようになるというもの。派手なアクションがあるわけでもなく、SF映画的ガジェットもない。主人公モンターグも、取り立ててヒーローとしての魅力があるわけではないのだが、この映画のテーマには現代の我々の社会にも通じるリアリティがあり、そこがSF映画としての魅力になっている。
昔より文字に触れるようになったはずの現代社会の課題
本を所有していると捕まる世界。そう書くと、他に数多くあるディストピアSFの中でも比較的ゆるい印象かもしれない。「別に本なんて読めなくてもそんなに困らないよ」、という声も聞こえてきそうだ。この映画の見せる悪夢は「別に困らないよ」と思いながら大衆が自ら進んでしまったもう一つのディストピアを示唆している点で大変重要である。
「本」を禁止する事、それはすなわち「思考」を抑制することだ。この映画における未来の社会では新聞は全てマンガになり、仕事上の書類も記号とビジュアル(写真)で賄われている。そうした思考プロセスの単純化は、物事に対し表層的な捉え方をするよう誘導し、結果、人々は仕事や命令の意味を深く考えることも、テレビの情報に疑問を感じることもなく鵜呑みにする。
即物的な娯楽にハマり、政府によって編集されたニュースを受け入れて生きるこの時代の人々は、自分の意志を持たないがゆえにどこか空虚であり、主人公のモノレールでの通勤シーンではマンガ新聞を読む男性や窓に映った自分にうっとりする女性が映し出され、決して他人に目を合わすことのないその描写は時に常にスマホを弄りつつ心そこにあらずな現代人に置き換えてもリアルなイメージだ。
我々現代人がすっかり本を読まなくなったのかと問われれば、確かにマンガやゲームと比較してかつてほど読まれていないかもしれない。だがSNSが一般化した現代では文字を読むことは少なくないどころか、本が娯楽の中心だった昔以上に文字を読み、書いているとも言える。問題は文章を読んで考える時間であり、文章を書くのに熟考している時間である。思考そのものが記号的な脊髄反射に慣らされた『華氏451』のディストピアにおいて「本」は考えることのメタファー。SF嫌いを公言するトリュフォー監督にも60年代の軽薄なテレビ文化にディストピアとしてのサジェスチョンがあったことは間違いない。それくらいこの映画は読書の大事さ以上にテレビ文化(情報化社会)が行く末への警鐘を表現している。
正しい(はずの)主張をする主人公が狂人のような扱いをされる世界
現代におけるビジュアルメディアが持つ即物的なイメージは立ち止まって考える間もなくレスポンスを要求し、そこではSNSの文字も思考というよりは記号的であり、いかに早く受け取り、いかに早く応えるかという意味において本を必要としなくなった『華氏451』のディストピアと変わらない。そこには権力や抑圧者が手を下すまでもなく大衆が自ら望んで作り上げた「ユートピア」がある。
別に「本を読め」と言いたい訳ではないし、時代とともにメディアや哲学が変化していくのは当然のことだと思う。
ただ自分は、思考訓練の場が失われると人間は感情が浅くなり、物事の本質を見極めるところからどんどん遠ざかり、ついには権力によってコントロールしやすい人間になるというところにこの映画の怖さがあると思うのだ。権力者の力づくの管理や抑圧ではなく、正しい主張をする主人公が狂人のような扱いをされる大衆自らが望んで作ったディストピア、それほど救いがなく完璧な管理社会があるだろうか。
怖いのは、この先いつしかこの『華氏451』を観た時に、主人公に感情移入出来ず全くピンと来なくなる時が来るのかも、と思うことだ。そうなった時には逆説的にこの『華氏451』の描くディストピアが実現したという事なのかもしれない。
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石川俊樹プロフィール:1962年東京生まれ 大学卒業後浦沢直樹先生のアシスタントを2年勤めた後、マンガ家兼アシスタントとして業界で働く。現在名古屋造形大学造形学科マンガコース准教授。バンド「フラットライナーズ」Ba/Vo
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