【カルト映画研究会:第11回】サイレント・ランニング(Silent Running)
今回紹介するカルト映画は『2001年宇宙の旅』(1968)での特撮監督として有名なダグラス・トランブルの初監督作品『サイレント・ランニング』(1972年)。ジョーン・バエズの歌を劇中にフィーチャーしたこの作品は、宇宙船の出てくるSF映画でありながらかなり特異な内容であり、冒険や活劇を期待するとかなり肩透かしを食らう映画だ。
共感できない主人公・ローウェル
実際に見たわけではないが、Wikipediaによるとジョーン・バエズは1985年にボブ・ゲルドフが中心となって行われた20世紀最大のチャリティ・コンサート『ライブ・エイド』アメリカ会場で、1番手を努め60年代コンサートのノリで聴衆に“アメージング・グレイス”を歌わせようとして盛大にすべって孤立したらしい。
彼は公民権運動・反戦フォーク歌手として有名であり、ウッドストックにも出演したフラワームーブメントの良心的存在でもあった。日本でも70年代フォーク全盛時にかなり影響力があった。そんな彼女の歌は、終盤で映画のメッセージを印象づける重要な役割を果たしている。
地球全体の気温が24℃で統一され、植物が死滅した未来。最後の植物をドームで保存する事を目的とした宇宙船バリ・フォージ号。だが主人公のローウェルを除いた3人の乗組員は植物の重要性に全く関心がなく、退屈な任務が終わって帰還できる事だけを楽しみにしている。
植物を愛するローウェル(ブルース・ダーン)はこの世界で唯一その価値を信じる人間だが、なかなか偏屈で独善的な男であり、自分の信条でもある植物保存計画が破棄されドームを核爆弾で破壊する指令が来ると、実行しようとする他の3人の乗組員と争い全員を殺害してしまう。
このSF映画はエコロジーをテーマに据えた点は斬新でもその地味さが敗因だったわけだが、僕が最も引っかかる部分はなぜ主人公ローウェルをもっと感情移入できる正義漢にしなかったのだろうか?というところだ。
ローウェルのエコロジーを尊重した主張はもっともな事を言っているのだが、本人は偏屈で、ハッキリ言って序盤から感じの悪い男だ。他のクルーとは考え方が違うだけではなく、もともと人付き合いの悪い空気の読めない盲信的な性格だった。反対にローウェル以外のクルーは軽薄ではあるが特別に邪悪なわけではなく、時代設定や状況からするとごく普通の一般人であり、その中の一人のクルーは孤立しがちなローウェルに気遣いすらを見せるのだが、彼はローウェルに真っ先に殺害されてしまう。
ローウェルの描き方に見る、異色のアメリカン・ニューシネマとして真のテーマ
宮崎駿監督の作品なら正しい考えは正しい人とともにあり、それを邪魔するのは邪悪な私利私欲を持った人達で、観客は主人公の正しさに安心してその考えに共感する事ができるだろう。同じエコロジーテーマを持つ『風の谷のナウシカ』(1982)で主人公である美少女ナウシカは誰も殺める事なく正しい考えを自ら体現していく。そこには宮崎駿監督自身が信じる正しさが物語構造全体で啓蒙されていく一貫したテーマ性がある。
自然(植物)が地球にとって大切なだけではなく人間の情操にも大きな影響があることは誰もが同意する「正しい考え」だろう。実際ローウェルも劇中のセリフとして主張している。だがこの『サイレント・ランニング』は本当にその事を訴えようとした映画だったのだろうか?2つのポイントで考えてみたい。
- 植物が大切と説くのは森林伐採や環境汚染に対する警鐘であって、このSF映画の未来の地球では植物の存在しない環境が完成している。その事での不都合はローウェルが主張するだけで、具体的には描かれていない。つまり植物がなくても誰も困らない世界が完成している上での主張なのだ。
- ローウェルの殺人は植物ドームを守るためとはいえ衝動的で、正しい考えとは関連性が感じられない。それ以降の展開でもなんら解決策を模索する事なく挫折感を抱えたまま自滅エンドを迎える虚しさがある。
1に関していえば、ローウェルの主張はこの世界では既に敗北した主張だ。3人のクルーに代表される植物への無関心はこの世界のスタンダードであり、ローウェルが正義漢ではなく偏屈な変人として描写されるのは理にかなっている。彼には正しい行動を行う余地が既にないのだ。
2の行動がこのドラマを大きく展開させるのだが、そこに「正しさ」はなく、中盤からたった一人の登場人物として宇宙船の中で過ごすローウェルの姿にヒーロー的な行動力は求めるすべもない。ただただ敗北感と挫折感だけがそこにはある。
ダグラス・トランブルがどのような真意を持ってこのような演出をしたのはわからないが、植物(フラワー)が暗喩するものが1960年代後半のフラワー・チルドレンと呼ばれたヒッピーのムーブメントであり、泥沼化しつつあったベトナム戦争へのカウンター精神を意味しているのはジョーン・バエズの起用から想像に難くない。つまりこの映画のテーマはエコロジーというよりも、理想が嘲笑され、夢のような祭りの終焉の予感を孕んだ異色のアメリカン・ニューシネマだったと思うのだ。
1971年のリチャード・カスパー・サラフィアン監督作でアメリカン・ニューシネマの傑作『バニング・ポイント』において、かつて正しいと信じた信条を人生に裏切られ、それでも何かに駆られるようにダッジ・チャレンジャーをブルドーザーのブレードに突っ込ますコワルスキーの破滅的な人生観とローウェルの生き様にはニューシネマ・マナーの共通点を見出すことができるだろう。
イノセントな理想と、正しさ、そして挫折
だがこの映画のローウェルにはその運命に付き添う物言わぬ友人がいた。それが後に『スターウォーズ』(1977)のR2D2に影響を与えたと言われる3体のロボット「ヒューイ/デューイ/ルーイ」である。この愛らしいロボット達がいるからこそ、気難しい理想主義の殺人者ローウェルの人間的な部分が引き出され、この映画に詩情を添えている点は重要だ。
傷つき自暴自棄になりそうだったローウェルに人間的な感情を呼び戻し、寄り添い癒してくれるイノセントな存在としてのロボット達は、あたかも迷えるローウェルの魂を導く天使のようだ。ジョーン・バエズの歌に送られて小さなロボットが旅立つ、そのあまりにロマンチックなラストシーンに理想主義の挫折の向こう側にあるイノセントな魂への鎮魂を感じるのは大袈裟だろうか。
語る人間が好かれなかったり、空気を読まなかったりすると「正しい考え」もたちまち「めんどくさい」「頭の固い」偏屈な意見となってしまうのはSNSのマナーが何より大事な現代においても同じである。また好感度が高い人物が礼儀正しく主張する事が「正しい」とも限らないだろう。この『サイレント・ランニング』を観てローウェルという人物が完全に理解できなくなった時、それはそれで我々は何か大事な感性を失うような気がしてならない。
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WRITER
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石川俊樹プロフィール:1962年東京生まれ 大学卒業後浦沢直樹先生のアシスタントを2年勤めた後、マンガ家兼アシスタントとして業界で働く。現在名古屋造形大学造形学科マンガコース准教授。バンド「フラットライナーズ」Ba/Vo
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