誰だってマチルダは好きだ、僕だってレオンになりたい(『レオン』再上映へ寄せて)
1月20日より京都シネマであの『レオン』が再上映されている。
1994年公開より語り継がれ、忘れられたことなど一度もない謂わば不朽の名作。老若男女が楽しめる――などと手垢のついた紹介などするつもりはない。
この『レオン』のフォロワーの一部にどうしても度し難い輩が存在する。それは『レオン』のドラマの一切を無視して「マチルダ可愛い~」だけに終始する奴ら。そう、アイツらだ。
何故か「若」と「女」に多く分布する奴らの各種SNSのアイコンは97%くらいの確率でマチルダ。ともすれば足元にもしっかりドクターマーチンを装備して「え?レオンってわかります?ワタシめっちゃ好きなんです~~!」とか嬉しそうに笑みを浮かべる。
「そうなんだ、映画好きなんだ」と心を許してはいけない。こいつら十中八九フェイクだ。浮かれると肩を落とすことになる。
案の定、本編の話をするとひとつも通じ合わない。驚くほど内容を覚えていない。
可愛い女の子とレオンの話をする、という僕たちの素敵な夢は何度打ち破られてきたことだろうか。もはや絵空事、それ自体がフィクションなのか?
ジャン・レノ(as レオン)とか全然通じない。「牛乳をね……」みたいな小ネタ振っても全然返ってこない。いや別に映画豆知識で押しつぶしたいわけじゃないんですよ。僕も好きだから、『レオン』。一緒になって楽しみたいじゃん。
あんな屈強な男がさあ、毛も生えてないような女の子に振り回される。そこの萌えポイントみたいなのも全部ぜんぶ含めて共有したいじゃん。
一生に一度しか訪れない13歳――持続不可能な第二次性徴ギリギリの境界を生きるナタリー・ポートマンに見惚れるのもそりゃあ勿論悪かない。当時13歳の美を真空保存したってだけでこの映画に意味はあるよ。(ピンと来ない人はクロエ・モレッツちゃんの『キック・アス』を想像して!)
んにしても!
何でジャン・レノ(as レオン)の存在をそっくりそのまま忘れてるんだよ。何でジャン・レノ(as レオン)との日々を不毛の焼け野原にできるんだ。拡大解釈ならまだしも、そこまでして縮小解釈をすることもないでしょうよ。
しかし一方でマチルダの存在だけは絶対に忘れない。神格化してイコン(icon)にして崇め奉り、自らもそれに近づこうとする。何故だ、何故なんだ?これはもう病。マチルダに至る病だ。
と、ここで一旦筆をおく。冷静になろう。理由があるはずだ。ないはずがない。性善説に則って原因を探ろう。ワークアウトと牛乳で一息つく。
待てよ?
よく考えてみればこのマチルダ以外なぁんにも見えてない、というこの状況。1mmもズレルことなくレオンと重なるのでは?
いやむしろ、このような「視野の狭さ」こそがレオンというキャラをレオンたらしめる要素なのでは?もしかしたらアイツらはレオンへ強烈に感情移入(もはや憑依に近い)することで頭からすっかりマチルダ以外の全てをそぎ落としてしまったのでは?
だとすればこれほど素晴らしいことは無い。「あのシーンが」「このシーンが」とか小賢しいことを書いている自分が恥ずかしくなってきた。本能的に誰よりも映画体験を楽しんでいるのはアイツらだ。
あんたら、もしかしてパチもんのマチルダじゃなくてマジもんのレオンだったのか?
誰だってマチルダは好きだ、僕だってレオンになりたい。
さて、話は一周し京都シネマ。この再上映を逃さない手はない。
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WRITER
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95年生。映画ライター。最近大人になって手土産をおぼえました。
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「フラスコ飯店」というwebの店長をしています。