『軽い男じゃないのよ』がレコメンド!『ズートピア』『ファインディング・ドリー』の後はコレ!「差別と戦え」なんて嘘。君はホントに中立か?
(c)Netflix, cited from IMDb
このラインナップは意図的か、あるいは偶然か。
ディズニー映画『ズートピア』が地上波で解禁され、その次の週のの金曜ロードショーは『ファインディング・ドリー』だった。現実世界の縮図をポップなアニメーションに託し人種の多様性を問うた『ズートピア』と、これまで実写では描きづらかった障害の問題をキャラクターの個性に落とし込んだ『ファインディング・ドリー』は互いにセットにして語るべき作品と断言してもよいだろう。
そして「ズートピア」「ドリー」の2作を見たのであれば、次に見るべきはきっとNetflix製作の『軽い男じゃないのよ』だ。
アメリカCGアニメを2本みて、何故その次に配信限定のフランス実写コメディなのか。その理由を伝えるにはいささか文字数が要る。少し長くなるが付き合って欲しい。結論を急ぐな。突飛な意見であってもまずは向き合って咀嚼する。それが「多様性」ってやつだろ?
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社会を許さないズートピアと、社会が許容したドリー
『ズートピア』では草食植物と肉食植物の職業や価値観など互いに差別する様が生々しく描かれている。この映画が素晴らしいのは、意識的な差別だけでなく無意識的な差別が見られる点にある。主人公のジュディやニックすら、心のどこかに差別や偏見を抱えている。こうした現状を炙り出すことが斬新だった。
『ファインディング・ドリー』の主人公はいわずもがなあの青いお魚、ドリー。前作「ニモ」からお馴染みニモは右ヒレが小さい。ニモが人間に囚われた先で出合うギルやピーチといった水槽の仲間(タンク・ギャング)たちも心や体に問題を抱えている。なんならニモを追い詰める人間の少女だって歯列矯正している。胸の中で広がる「あれ?もしかしてこの映画は障害者の映画なのか?」という疑念。そしてそのアンサーがドリーだ。ドリーは恐らく――いや間違いなく――メンタル面での障害を抱えているし、劇中に登場する新たな仲間たちも同様だ。7本足しかないタコのハンク、超音波が使えなくなったイルカのベイリー、目の見えないジンベイザメのディスティニーなどなど。そうしたキャラクターたちの奮闘を我々は目撃することで、障害もひとつの多様性であることを知る。
それって偽善じゃない?
さて、ここからが本題だ。
『ズートピア』と『ファインディング・ドリー』にはある共通点がある。それは観客が無傷だということだ。「差別がある」「差別はよくない」と鳥瞰する作りになっている。つまり、甘ったるい偽善的な教訓を得るだけで終わってしまう可能性があるということだ。
そこで見て欲しいのが『軽い男じゃないのよ』という作品。ここまで読んでくれた君には是非しっかり見て欲しい。恐らくは2010年代の社会派映画の必修作品だろう。
シックなジャケパンスタイルに身を包み、挨拶のような軽口で女を口説く。非常に男性的で典型的な「色男」のダミアンは男女の倒錯した世界へと迷いこんでしまう。そこは男が女々しく、女が男らしく振舞う社会だ。たとえば、元の世界では小説家だった友人はそこでは小説家ではなく小説家の秘書。かつての世界で秘書をやっていた女性が小説家なのだ。街中の人々の細かな設定や衣装まで、本当に細部まで倒錯が作り込まれた虚構世界に感心せずにはいられない。信号機のピクトグラムまでもが「女性基準」に変わっている。こうして倒錯することで今まで見えていなかったジェンダーが可視化されるのだ。
主人公の男は困惑する。いい歳の男がクネクネした歩き方をしている。胸毛を処理していないことを理由にセックスしてもらえない。コミカルな描写に事欠かない映画だ。
笑えてしまうのは隠れた「膿」だ
と、ここで勘の鋭い観客は気付く。このコメディを「面白い!」と感じるということは、それはつまりそ自分の中に差別意識が潜在しているということだ。「男性はかくあるべき」「女性はかく振舞うべき」といった前提が覆されることにより笑いが生まれる。逆に考えれば、笑うということはそうした差別的な前提が存在するということだ。ついさっき「男性的」という表現をしたが、この言葉さえも偏見の塊なのだ。「男性性」が指すのは力強さであったり、権威だったり。これは「女々しい」「男らしい」という表現も同じだ。見ているうちに次第に何が正しい常識で、何が間違った通念なのかということがわからなくなってしまう。
差別や偏見は誰の心にも存在する。人の投げるボールは必ず曲がっているのだ。これはもう避けられないように筆者は感じている。ストレートを投げられるように頑張ろう!と啓蒙する『ズートピア』や『ファインディング・ドリー』と本作は一線を画す。『軽い男じゃないのよ』のメッセージは「ボールが右に曲がるなら左を狙って投げないと駄目」「そもそも、曲がってしまう投手は玉を投げて良いのか?」というところにある。
君だって僕だって社会の一員だ
鳥瞰的に「差別や偏見はよくない。多様性こそが大切」と意見する教材が『ズートピア』、『ファインディング・ドリー』だとしよう。社会の問題を認識して、理想を夢みることも勿論大切だ。しかし、社会は個人の集合。君たちひとりひとりをΣ(シグマ)で括ったものこそが社会だ。そんな社会の最小単位である個人個人の持つ偏見に揺さぶりをかける映画が『軽い男じゃないのよ』だ。果たしてお前は本当に中立か?そう強く問いかけられる作品だ。Netfilixでしか配信されていないが、Netflixに加入しさえすれば誰でも見ることが出来る。今月の締めくくりに是非オススメしたい。
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WRITER
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95年生。映画ライター。最近大人になって手土産をおぼえました。
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「フラスコ飯店」というwebの店長をしています。