編集部による月1合評レビュー。今月のお題目は、フジテレビ系(関西テレビ制作)で放送された坂元裕二・脚本によるテレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』の主題歌、STUTS & 松たか子 with 3exesの“Presence”です。STUTSによるトラックをベースにKID FRESINO、BIM、NENE(ゆるふわギャング)、Daichi Yamamoto、 T-Pablow(BAD HOP)が毎週代わる代わるラップパートを彩り、ドラマの評判も後押しして異例の反響を呼んだ本曲。放送終了後も全パターンを収めたアルバム『Presence』がリリースされ、楽曲から再び「大豆田とわ子」の世界の後味を楽しんでいる中、ANTENNAでもメンバー6名で評します。
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フックアップとして斬新な形(マーガレット安井)
tofubeatsがテレビ東京系ドラマ『電影少女 -VIDEO GIRL AI 2018-』を担当した際、パソコン音楽クラブ、in the blue shirt、ゆnovationなど彼の仲間を呼び、劇伴を作り上げた。これはいわゆるHIP HOP におけるフックアップの思想がそうさせたと考えるが、同じことは本作にもいえる。BIM や Daichi Yamamoto、KID FRESINO といった面々は過去に STUTS と楽曲をリリースした仲であり、本作はフックアップだともいえる。
しかし本作において重要なのは STUTS がラッパーをフックアップをしたことより、その土壌を開拓したという点だ。思い出して欲しい。NENE(ゆるふわギャング)や T-Pablow(BAD HOP)など、フレッシュな HIP HOP アーティストの音楽が、プライムタイムのドラマで流れたことが今まであっただろうか。さらに劇伴ではなく、一つの同じ曲だがドラマの内容と呼応したラップを、毎回アーティストを変えて披露したやり方は、今までにはない斬新なフックアップの形だといえる。普段 HIP HOP を聴かない視聴層に接点を作り、新しいフックアップの形も見せつけた本作。そういう意味では、『Presence』は日本の HIP HOP のメルクマールともいえる作品だ。(マーガレット安井)
楽曲単体でも、ドラマの延長としても外さないリリックの二面性(柴田 真希)
角田晃広が扮する佐藤鹿太郎に焦点を当てていた第三話のエンディングで披露された “Presence III (feat. NENE, 角田晃広)” 。二番目の元夫なのだから、第二話で鹿太郎にフィーチャーしてエンディングも “Presence Ⅱ” とするのが自然では?と少し違和感を持っていた。
東京03の角田がきっかけで、ドラマよりも先にまずこの曲から聴く人はいるだろう。そんな人は、角田のコンビ名に入っている 「3」 を踏まえてのタイトルと思うかもしれない。そして “ビニール傘も俺にとっちゃヌンチャク” のリリックから東京03のコント「ビニール傘」も想起できる。牛丼屋に居合わせた3人が綺麗なビニール傘を取り合うコントだ。ビニール傘は角田にとってネタの武器にもなる。
一方で偶然か意図してか、ドラマでも角田演じる鹿太郎は透明なビニール傘の新しさにこだわっている。そこだけ見ると格好がつかないが、土砂降りの中、傘を持たないとわ子のためにわざと店にビニール傘を置いて帰るキザな一面もある。ドラマでは傘は変わらないものの象徴として、鹿太郎からとわ子への見え透いた愛のかたちと見ることも出来るだろう。
角田の部分も含め本楽曲のラップを手掛けたNENEは歌詞の提供が初だというが、楽曲から入ってもドラマから入っても深く楽しめるリリックを生み出す手腕は彼女の新しい手札となっただろう。そしてもう気がついている人もいるかもしれないが、芸人としての角田とドラマの鹿太郎、どちらの視点でも脈所となっている「傘」、これも角田演じる鹿太郎の回を “Presence Ⅲ=サン” にした一つの遊び心なのかもしれない。(柴田 真希)
大豆田とわ子とbutaji、それぞれの物語の交差点としての“Presence”(峯 大貴)
大豆田とわ子は、三人の元夫との未だに続く良好でありイビツな関係性に折り合いもつけなければ、この先どのように生きていくのか規定されることも頑なに拒んでいる。そしてそんな自分を認めてあげようとして毎日を謳歌しながら、でもこのままではいけないとも少し感じている。何重にもパーソナリティーが引き裂かれているという主人公だった。このあまりにも多層的に読み解けるドラマの主題歌として、“Presence”はラッパーたちが物語と合わせてそれぞれの視点でとわ子観を綴ることで、さらにどんな方向からの解釈とその先にある共感も可能にさせたと言えるだろう。
しかし全verにおいて松たか子の歌唱部分は共通だ。ここのリリックとメロディを担ったのはシンガー・ソングライターのbutaji。トラックを担ったSTUTSがよりたくさんの人に届く大きなメロディが書けるという点での参加オファーだったようだが、あらゆる生き方もあらゆる愛のあり方も尊重されるという本ドラマのメッセージは、butajiの作る音楽に共通して息づいているものであり、むしろその点において強く必然性が感じられる。
ドラマはとわ子があらゆる生き方の選択肢からおおよそ一つの方向性を選び取ったところで終幕するが、本曲でもラストに「楽しい 悲しい その先へ」と歌うことで見事に寄り添っている。そこにはbutajiが自身の楽曲“中央線”のラストで「それでも愛してる まだまだ それを受け取ったの」とあらゆる選択肢や今の状況を見まわして、それでも愛すること、受け取ることを選択する部分に相似形を感じるのだ。大豆田とわ子とbutaji、それぞれの物語の交差点としてこの曲を読み解くことも出来るだろう。(峯 大貴)
楽曲とドラマ、双方から浮かび立つ存在の残り香(阿部 仁知)
ドラマの副音声としての主題歌、楽曲の副読本としての物語、あるいはその双方。星野源の“恋”然り、古今東西タイアップ作品はそういった異なる立場からの視点が折り混ざるものだが、本作はその構造が持つ可能性を探求した作品だ。かく言う僕はドラマを観ていないので音楽作品の側から考察を試みたい。
真っ先に耳に残るのは5名のラッパーによるラップパート。I〜Vの“Presence”ではほぼ一貫したトラックがラッパー達を支えているが、リズムも発音も声質もラッパーによってこれでもかと違っている。5人が織りなすグラデーションは、同一トラックに違うラップを乗せるヒップホップの作法に則りながら、ソングオリエンテッドな制作では決して成せないであろう広がりをもたらしているのだ。
しかしだからこそ特筆すべきはSTUTSと松たか子の存在だろう。わずか5音で物語の情緒を印象付けるメインリフとさりげなくも躍動するリズム、ヴォーカルもキレのあるラップとの対比でより歌謡曲の情感が際立つ。そして彼女のメロディを手がけたbutajiを迎えた“Presence Reprise”はメロディとハーモニーの美しさに振り切ったような仕上がりで、トラックにただ浸るインストゥルメンタルが作品を締め括る。
3人の「元夫」も含めた時代を彩る面々の共演と、その中でもなお声ひとつで異彩を放つ松たか子の存在感。その表現は多くの視聴者が口々に語る「物語」の香りを感じさせて余りあるもので、音楽以外に腰の重い僕でさえいよいよ「観なければ」と思わされたものだ。これこそがドラマ愛好家もミュージックラバーも注目するタイアップという形式を最大限活かした表現のかたちだろう。(阿部 仁知)
「123456」が示すもの(松原 芽未)
「恋の6秒ルールです。6秒間見つめあったら、それはもう恋に落ちた証拠なんですって」。松田龍平演じる田中八作のこのセリフは、この言葉を回収する後半部分も含めて間違いなく『大豆田とわ子と三人の元夫』第二話のハイライトの一つだ。
第二話のエンディング、“Presence II (feat. BIM, 岡田将生)”にも「恋の6秒ルール」は反映されている。サビ前で「654321」とカウントダウンするリリックがあるが、これは明らかに「恋の6秒ルール」を意図している。「サビ=恋」までのカウントダウン、といったところだろう。……と、ここまでは明快な話だが、実は注目すべきは2番。今度は同じ場所で「123456」とカウントアップに転じる点がリリックの肝だと言いたい。だって、カウントアップ、つまり「654321」で恋に落ちた先こそが、『大豆田とわ子と三人の元夫』が描き続けてきたことなのだから。
ドラマでは、ちょっとしつこいくらいに「その後」が描かれる。誰かと恋に落ちた「その後」。大切な人が亡くなった「その後」。タイトルからしてすでに「元夫」。離婚した「その後」の話だ。どんなにドラマチックな出来事が起こっても、そこで物語は終わらず、きちんと「123456」が描かれていく。わかりやすいストーリーにはなりえない「その後」を堂々と紡ぐ『大豆田とわ子と三人の元夫』とBIMから、安易なハッピーエンド(あるいはバッドエンド)で人の幸せを限定しない、すべての人へのエールを読み取っては、都合よく受け止めすぎだろうか。でも実際、私たちの人生だって、「その後」の方が長いのだ。(松原 芽未)
ただそこに存在する人々と、自分で決める幸せの姿(小倉 陽子)
「人生って、小説や映画じゃない。幸せな結末も、悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかということだけです」というのは『大豆田とわ子と3人の元夫』の中で、とわ子の4人目で最後の夫になるかと見守られた小鳥遊(オダギリジョー)の台詞。“Presence”という楽曲はひとつのトラックと同一のサビを共通のものにしながら、5組のラッパーたちがそれぞれのリリック・それぞれのフロウで楽曲を色付けている。それは、物語としてひとつの解を差し出す小説や映画、もしくはTVドラマの作法というより、物語を多面的に描くことで「解釈の余白をつくる」このドラマのテーマとリンクするものではないか。
ドラマはとわ子の人生が波乱万丈なだけでなく、様々な葛藤を抱えた人物が描かれる。誰にどんな角度からでも共感できる余地があり、それは主人公と脇役という2つの役割にとどまらず、登場人物のそれぞれが「どういう人だったか」がとわ子のまわりにただある。そして、ピッタリすり合わない人々がともに生きていく姿は、歌手であり俳優でもある松たか子というメインパーソンと、俳優(芸人)である元夫、そして地上波で初めて目にした視聴者も多いであろうトラックメイカーSTUTSと5組のラッパーたち、というザラつきがもたらす『Presence』という楽曲集の美しさになって、ドラマの在り方を補強する。ドラマと主題歌、どちらもその先にあるのは〈曖昧で 純粋で 私が自分で決めた 幸せの姿〉。アルバムの最後に収録された(instrumental)には、リスナーも自分で決めた幸せの姿を言葉にして想像していい、そんな余白を感じるのだ。(小倉 陽子)
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地域に根ざした世界中のインディペンデントな「人・もの・こと・場所」をおもしろがり、文化が持つ可能性を模索するためのメディアANTENNAです。
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