
SXSW2026
若いカウガールが4人。
はじめてのことなのか、ホンキー・トンクに踊りに来たはずがにウブな感じでなかなか踊りの輪の中には入らない。キャイキャイとなにかを話しては、笑い合ううちに楽曲は1つ2つと終わる。意を決した一人がバーカウンターで飲んでいた一人の中年男性に声をかけ、無事にダンスフロアでテキサスツーステップでリズムを刻む。iPhoneでその様子を撮影していた他の女の子たちも、気がつけばそれぞれに相手を見つけて踊り始めていた。それが今回のオースティン最終日の記憶、〈Sam’s Town Point〉での出来事である。
SXSWに通いはじめて、とうとう今年で10年目になった。
パンデミックの影響で2020年は中止、2021年はオンライン開催だったから、現地への参加は8回目。そのあいだに変わったものはたくさんあるが、訪米するたびにわかりやすく変化を感じるのは正直「お金」のこと。上がっていくアメリカの物価。国際社会のなかで年々目に見えて弱くなる日本円。体感では、使ったお金を計算してみると初年度の1.5倍ほどの滞在費になっている。そうした煽りはSXSWも受けていて、パンデミック以降の資金難の時期を経て、運営体制やオペレーションが少しずつ変化していく。
もちろん、変わったのはSXSWだけではない。「移動」一つ取っても電動スクーターが走りはじめ、Uberのような配車アプリが定着し、自動運転タクシーまで街を走るようになったのがここ10年のオースティンでの出来事だ。AIが仕事や社会のかたちをものすごい速度で変えていく今、次の10年の変化はもっと大きいのだろうかと想像する。
節目の年でもあったので、レポートを書く前に初年度からこれまでに書いてきたSXSWの記事をあらためて読み返した。そこには、いまでは大きなステージに立つようになったアーティストたちの名前も少なくない。今の音楽シーンの前線を担うようなバンドもいれば、新しい時代の扉をひらきながらもあっけなく消えていったバンドもいる。思っていた以上に、自分はこの場所で「よいアーティスト」を見せてもらってきたのだと思った。一方で、そもそも「よいアーティスト」とは何だろうとも思う。そして自分は、「よいアーティスト」を見つけるためにSXSWへ来ていたのだろうかとも。
SXSWはショーケースである。
世界中から集まってくるアーティストやレーベルは、大小あれどそれぞれに商業的成功を目指していることが多い。当然そこでは、誰もが自分たちの音楽を少しでも洗練させようとしている。「洗練」とは、一般的には「粗さを削ぎ落とし、優雅で品位のあるものへ磨き上げていくこと」を意味する。
人間の癖や、土地の匂い、キャリアの途上にある不安定さや凸凹。それらが打ち出されている多様な音楽に触れられることにSXSWの楽しさがある。この言葉は「商品として売れるものへとパッケージングする」ことと似たようなニュアンスで使われることが少なくない。ただ、「洗練という言葉を何かを均一に整えるという意味に閉じ込めてしまうのはもったいない」と感じさせてもらったのが今年である。磨いた結果、ツルリとした手触りになるのではなく、より強い土着性や、人間味、そしていびつな輪郭が残ることがある。今年のSXSWで琴線にふれたアーティストを軸に、「洗練」を6つのキーワードから考えたい。
Geordie Greep(雑食性)
今年一番の目玉とも言えた出演アーティストはGeordie Greep(ジョーディ・グリープ)だろう。black midiは2018年にSXSWのBritish Music Embassyで見て度肝を抜かれたバンドだった。そのフロントマンとして知られる彼は、2024年にRough Tradeからソロ・デビュー作『The New Sound』を発表。ロンドンとサンパウロで録音され、ジャズ、ラテン、ファンクを含む雑食性のなかで、より強い演劇性と歌に輪郭を与える音楽へのアプローチが見られる。black midiが無期限の活動休止をする中で、彼は自分の表現をどこまで押し広げられるか問い続けているような印象を受ける作品だった。
2024年のインタビューに彼の音楽スタンスがギュッと詰まっている(参考)。記事のタイトルは、「“Almost every band behaves like a corporation. Everything is a press release”(ほとんどすべてのバンドが企業みたいに振る舞っている。全部プレスリリースみたいだ)」。テクノロジーが人々をよりサービスのユーザーとしてのふるまいを強めていく現代。そうした風潮に絡め取られていくバンドに対する批判そのものを楽曲に込める彼がSXSWへ出演する意味は、ことのほか大きいように感じられる。今年のSXSWはこれまで中心となってきたコンベンションセンターの改築に伴って大きく平日にまたがって開催をされたのだが、彼が出演するデイパーティには平日に関わらずMohawkには多くの人が早い時間から詰めかけた。
おおよそ一時間におよぶステージ。リハーサルでの音出し時点から即興でのセッションをスタート。ムードを作り上げていきながら、“Holy, Holy”といったソロでの代表曲などを交えたパフォーマンスを繰り広げていく。当日はニューカッスルのジャズバンドKnatsがバックバンドを務めていたのだが、これがかなり素晴らしかった。自由で、複雑な音楽、演奏のスキルは抜群に高いのはblack midi時代から違いはない。ただ、そこにある緊張感は大きく違った印象を受けた。black midiはスリリングな緊張感がたまらないバンドだったが、この日はGeordie自身がとても楽しそうなのである。2018年、ステージで表情一つ変えない彼の仏頂面と、そこから繰り出されるヒリヒリとしたアンサンブルは今でも写真を見るとすぐにでも思い出すことができる(当時18前後という若さもあったと思うけど)。
そうした遊び心はライブにWillie Nelsonの“Night Life”を、そして菅野よう子の“Rush”まで織り込むところにも表れていたのではないだろうか。そして最後には今年1月に亡くなったblack midiのギタリストMatt Kwasniewski-Kelvinのことに触れ、かつてblack midiでSXSWに来た頃を短く振り返ったうえで“953”を演奏した。実験的でありつつ緻密に構築されたblack midiの楽曲やパフォーマンスと比較すると、はるかに今の彼のステージは「人間らしい起伏のあるものに感じられた」のだった。
Geordieは前述したガーディアンの記事の中で、black midiのことは「気に入ってるけど、ちょっと聴きづらい」と言われていたことを明かし、そのことを素直に受け入れ「でもある日、『待てよ、それは馬鹿げてる。音楽は聴くためのものだ。耳で聴くものであって、頭で考えるものではない。聴きづらい音楽を作る意味はない』って思ったんだ」という大きな価値観の転換を語っている。
そうした姿勢がよく表れたステージであったことは間違いがない。音を上品に聴きやすく磨き上げることを洗練と呼ぶのではなく、人間が持つカオスや一種の過剰さを失わないまま、人を引き込める強度にまで高めること。そうしたパフォーマンスを見ていると、「今の時代を最も批評しているアーティストの一人だったのでは」と感じざるをえない。
Diles Que No Me Maten(土着)
今年SXSWで見たバンドで最もグッと来てしまったバンド、それがメキシコシティを拠点に活動するDiles Que No Me Maten(ディレス・ケ・ノ・メ・マテン)である。3月17日(火)の日中、アメリカ国外のアーティストも出演が多いRadio Day Stageで見かけたのだが、明るい時間のショーにもかかわらずムードがガラリと変わったのを覚えている。
2017年に結成。メキシコの作家フアン・ルルフォの短編小説と同名の名前を冠した5人組は、ジャズ、サイケデリック、クラウトロック、即興演奏を行き来しながら、自分たちが住む街のざらつきや緊張感を素直その言葉はいまもこの国の殺しや暴力の現実にそのまま通じている」と語る。またJonás Derbézは、ルルフォの文章にある地方の言葉とスペイン語が混ざり合う感覚に惹かれているとも話していた。つまり彼らにはメキシコという地域がはらむ歴史や文化への強い自意識がある。
以前からメキシコ麻薬戦争に関心があったので『ボーダーライン』、『カルテル・ランド』、『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』などは観ていた。加えて最近たまたまメキシコで10年ほどを過ごしていた古屋大和さんの自叙伝『愛を貫く タコス・トレス・エルマノスの革命』を読んでいた。「だから想像できる」とは軽々しく口にはできないが、あまりに「日本で過ごす我々とは違った死の身近さ」がそこにはある。そうしたほの暗い緊張感と生の刹那さが、歌詞を理解できなくても太陽が燦々と降り注ぐ会場にまで充満していくのを感じた。
言葉には「持っている意味」以上に土地の記憶やそこで生きる人々の文化や価値観が反映されることがある。以前、東北出身の友人と「大学で東京に出るタイミングで方言が恥ずかしくなって標準語で話すようになった」という話をしたことがある。その瞬間に削ぎ落とされる土着的な身体性が確実にあるのだが、私たちはときにそのことに無自覚だ。そうした感覚を常に自覚し、長く続くリフのループの中で、時に語るような歌い方で、即興で繰り出すノイズで濃度を高めていったのが彼らのスタイルだと言える。そこには、「今、確かにここにある」ものから目を背けない(背けられない)切実さが確かにあると思うのだ。
Sheer Mag(持続)
好んで家で聴く音楽と、ライブで観ていいなと感じるバンドは違ったりするものだが、中でもそんなギャップを最も感じたのは2010年代半ばからフィラデルフィアを拠点に活動を続けてきたSheer Mag(シアー・マグ)である。シンプルに「まだこんな風にロックバンドやれるんだ」と思わされた。
彼らは、DIYの倫理を身につけたまま、70年代のハードロックやパワーポップを現在進行形のバンドとして鳴らし続けてきた存在である。なによりも彼らのパフォーマンスで最高なのは、ボーカルであるTina Halladay(ティナ・ハラデイ)の力強さだ。バンドが長い時間をかけて獲得してきた熱を一遍に引き受けてきただろう歌が聴ける。2024年にはジャック・ホワイトが立ち上げたThird Manから3rdアルバム『Playing Favorites』を発表。これは彼らにとって初めてレーベルから出す作品であり、長く自分たちでやってきたバンドにとっては大きな転機でもあった。
Tinaはリリース後のインタビューで、「Third Manと組んだのは、これまで他のレーベルからの誘いを断ってきた自分たちにとっても自然な流れだった」と語っている。ナッシュビルのレコードストアでライブを重ねるなかで信頼関係ができていたこと、すぐに契約を迫らなかったことも大きかったという。一定の手応えもあっただろうし、同時に自分たちだけでやることの限界を感じることはあっただろう。その上で、自分たちの「らしさ」を失わずに続けるための判断だったのだと思う。SXSWをキャリアのステップアップに位置づける若手アーティストや、アメリカの音楽産業に売り込みをかける他国のアーティストとも少し違う。時間をかけて丁寧に信頼を構築してきたバンドが、まだまだ現在形であることを見せるためのステージが今年のステージだった。
Sheer Magは音楽的にも「新しい」ことが魅力のバンドではない。むしろ彼らの凄さは、ロックバンドという古いスタイルを、惰性ではなく執念で鳴らし続けているところにある。下手すれば懐古主義に陥りかねない音楽だと思う。ただ、そうは思わせないのは長く続けることで出せる音の圧を重ねているからだ。若さと衝動に頼って生み出す形式的なロックとは違う、続けてきた者だけが持てる説得力がそこにある。
Sheer Magは「ロックバンド」を過去から現代、未来へつないでいくための実践なのだろう。角を丸めて無難になるのでもなく、よりしなやかに、より音楽の密度を高めてていくこと。派手な変化ではないかもしれないが、その歩みには確かな意志を感じさせるものがある。そうした意味でSheer Magは、もっとも地味で、しかしもっとも信頼できる洗練さだった。
Fish Hunt(親密)
今年もひたすらにベニューや、イベントベースでその日出演するバンドを聴き比べていったのだが、3月14日(金)のChess Clubのイベントはほぼほとんどが好みで気になるイベントだった。中でも深く残っているのがFish Huntだ。ニューヨーク出身のLucy Mondello(ルーシー・モンデロ)によるプロジェクトであり、2000年代のNYCインディー・シーン、1980年代のポストパンク、そしてニューウェーブに影響を受けた彼女はModest Mouse、Johanna Warren、Animal Collectiveを聴きながら過ごした。
そのサウンドは「注意深く、繊細」と形容され、ミュージシャンのプロフィールではあまり見ない「手作りの料理やパッチワークキルトのような」という紹介がある。2024年1月に発表された2ndアルバム『Self-Taught』は、所属するVHS Records周辺の仲間たちと制作を行っているのだが、ソロプロジェクトとは言いつつも、ニューヨークのDIY的な共同体のなかで少しずつ輪郭を得てきたプロジェクトとして見るほうが自然かもしれない。
今回、記事の中で紹介するアーティストの中でもフォロワーは群を抜いて少ない。ライブパフォーマンスを見ていても、自分たちの活動を飛躍させるための気概のようなものは感じられなかった。彼らのコミュニティが持つ親密な音楽がざわついたショーケースの場でどこまで届くのかを試す機会だったように思える。「日常や私的さの追求」と言えばいいのだろうか。特別ななにかを作り込んでいくのとは対照的で、彼女たちの音楽は音の配置、言葉の選び方、場の空気に対する慎重さで意識を惹きつけるものがあった。
American Songwriterの取材では、Lucyが拠点のひとつであるVinegar Hill Soundを「haven」と呼び、そこが自分にとって安心できる制作の場所になっていることを語っている。それを読むとFish Huntの音楽には信頼できる人たちと過ごした時間が宿っているように感じられる。ソロプロジェクトといえば、カリスマ性のあるSSWとそれを支えるバックバンドや、一人の繊細な天才かぽつんと立っている印象を抱きがちだが、当日のステージからそんな雰囲気は感じられなかった。スタジオに入り、リハーサルをする。その時の距離感がそのままステージの上に乗っている景色は、SXSWのような巨大なショーケースのなかではかえって際立つ。
内面を掘り下げてかたちにした音楽を人前に差し出すことはこわいものだ。音楽どころか、本当は「人になにかを差し出す」だけでも一定のおそれはつきまとう。そうした繊細さは、多くの人に届けようとすればするほど失いがちでもある。SXSWのような大きなイベントの中でそうした手触りを保つための洗練のさせ方が、彼女たちの関係性に垣間見えたことはうれしい。
おわりに
AIをはじめとするテクノロジーは、これから音楽の作り方や届け方をさらに大きく変えていく。正直、変化が早すぎて「予測」などできる状態にないと思うことは多々ある。音楽そのものはこれまでの時代と同じように新しいスタイルが生まれては廃れ、洗練と陳腐化を繰り返す。その「洗練」がより届きやすくとか、より伝わりやすくとか、そうしたもの一辺倒にならないことを期待させてもらえたような年だった。
Geordie Greepの雑食性も、Diles Que No Me Matenの土着性も、Sheer Magの持続性も、Fish Huntの親密さも、どれも何かをツルリと整えるのではなく、自分たちの核にあるものを失わないまま強度を高めていく実践だった。過剰さに怯えないこと。土地の匂いを薄めないこと。立ち続けるため変わることと。パッチワークのように手で紡げることを大切にすること。今年見た音楽たちは、それぞれ違うやり方で、そうした洗練のあり方を示していたのだと思う。
ホンキー・トンクで見た若いカウガールたちを思い出す。
踊り慣れているわけではないし、最初は輪の外で笑い合い、なかなか中へ入っていけない。それでも意を決して誰かに声をかけ、ぎこちないままステップを踏み始める。洗練とは、本来こういうものなのかもしれない。最初から無駄なく美しく振る舞えることではなく、不格好さやためらいを抱えたまま、それでも場のなかへ身体を差し出していくこと。角を削って均一になることではなく、自分のぎこちなさごとその場に馴染んでいくこと。そういう意味では、あのホンキー・トンクにもまた、今年のSXSWで見た音楽と地続きのものがある。
結局、自分がこの場所に惹かれ続けてきた理由も、そのあたりにあるのかもしれない。
次に売れるものを見つけること。大きくなる前の才能に立ち会うこと。そうしたショーケースとしての面白さはたしかにある。けれどそれだけではなく、変わり続ける街とフェスのなかで、それでも簡単には置き換わらない熱や、不格好なまま人が人とリズムを共有する瞬間が残っているのがSXSWである。洗練とは何かを考えた一年だったが、その答えは案外、ステージの上だけでなく、あのダンスフロアのなかにも転がっていたのかもしれない。
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WRITER

- フォトグラファー
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昭和最後の大晦日生まれのAB型。大学卒業後に茨城から上洛、京都在住。フォトグラファーをメインに、ライター、編集等アンテナではいろんなことをしています。いつかオースティンに住みたい。
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