
【SXSW2025】Where Is My (Indie) Mind? インディー魂は今どこに。
毎年3月に行われる世界最大の音楽と映画、テックのショーケースSXSW。今年も音楽部門のレポートをお届けです。著名なアーティストを追いかけるのもよし、まだ誰も知らない新人アーティストをディグるのもよし。いずれにしても日本では、なかなか見る機会のないアーティストばかり。今年の記事では「インディーってなんだっけ?」をテーマに、他のメディアではあまり取り上げられなさそうな3つのインディーバンドを紹介していきます。
あぶないあぶない。
また「今年のオースティンは初夏のようで……」と冒頭から気候について伝える、退屈な原稿を書いてしまうところだった。毎年3月に開催される世界最大のショーケースイベントSXSW(サウス・バイ・サウスウェスト)への初参加からはや9年。毎年恒例のレポート記事を出すのに、また二ヶ月も要している。でもどうか許してほしい。全体像を掴むのにも苦労する規模のイベントに足を運び、一週間、毎日5から10近くものライブを見て、一本の記事にまとめるのには大層骨が折れるということは声高に言わせていただきたい。
事前にテーマを見出すことは、毎夜煌々と光るディスプレイでラインナップを眺めているだけでは困難だ。大抵は足を運び、一週間をドタバタと過ごし、帰国して振り返り、人に「ああだった、こうだった」と話す中でようやく書くべきことが輪郭を帯びてくる。しかし、不安に反して毎年違った一本の筋が浮かびあがるわけで、そう考えればSXSWにはまだ見れていない側面がまだいくつかはありそうだ。肩書的には編集長である。自ら記事を執筆する機会は少ない。だからこそと言えるのか、毎年のSXSWのレポートには「ここのところ関心を寄せている物事」も記事の中にがギュッと集約される傾向にある。

突然そんなことを言われても、と思うだろうが僕はずっと「音楽」にコンプレックスがあった(あえて過去形で言わせてもらう)。大学生の時に軽音楽部で活動したものの、どうにも「みんなが言っている感覚がわからない」のである。やれメロディがどうだとか、あのノリがどうだ、ということである。言葉はわかる。概念としてもわかる。しかし、身体感覚として掴むことがなかなかできず、悔しい思いがあった。きっと、前世はイースターあたりの石像だったのだ。
なのに自分よりはるかに才能のあった同年代のほとんどが音楽との接点を失う中、いまだに自分は音楽に関わり続けている。その要因の一つは、大学時代に先輩たちのインディペンデントなハードコアなシーンを目撃し、USインディーシーンに影響を受け、効率性とは真逆にあるDIY原理主義者のようになってしまったからだと考えている。「既存のシステムに依存しないこと」や「ハンドルを自分たちで握り続けること」、そして「自立と自律のマインド」の灯火は未だに自分の胸の中に明確な指針としてある。

おっと、SXSWの話だった。
どうしてこんな話から始めているかといえば、そこで培った「インディー/インディペンデント」な感覚が最近、思ったより周囲に伝わらなくなっていることに気がついたからだ。音楽のシーンに限っても昨今は「インディー」という言葉がメジャーなシーンで「いち音楽ジャンル」として使われることが確かに増えてきてはいて、その領域はより曖昧なものになってきた。
加えて、長らくメディアを一緒にやってきた仲間たちに、今更ながら「実は意味がよくわからない」と言われて仰天したことはトドメだった。「言わずとも、伝わっている」といつの間にか勘違いしていた節はある。が、確かに自分の中で当たり前の感覚としすぎており、伝えることは案外してこなかったのだ。そうであれば、世代も感覚も違う一回り下のメンバーに対しては、ほとんど伝えられていないのではないか。
SXSWはイベントがスタートした1987年当初こそ音楽フェスティバルと銘打っていたものの、「ショーケース」であることがおもしろい。このバランス感覚がポイントであって、そこにインディペンデントなマインドを持ったレーベルやアーティストが打ち立てた反骨の魂があったはずだ。昨年、米軍関係のスポンサーがついたことに随分と抗議の声があがったが、(そもそもイスラエルとガザの現状を目の当たりにして感じる部分があるのは当然のものとしつつ)SXSWのインディペンデントなマインドが目の前で崩れかけてしまったことへの不安もそこには含まれていたのではないか。
「インディーである(またはインディペンデント)ということが本来どういうものであったのか」SXSWで思い出したことがある。今年のレポートではそのことを中心に、振り返りたい。
その1:インディーとは個人的な物語を語るものであること

今年はどうやら例年に比べて出演アーティストが随分と少なかったようだ。今年のアーティストの出演は1,000ちょっと。昨年が1,200で、全盛期は2,000を超えるとのことだったのでかなりの減少傾向にある。
そのせいか、今年はどこの会場でも人気のアーティストが引っ張りだこで、何度も観る機会があった。自分が気にかけているベニューで名前をたくさん見たアーティストと言えば、mary in the junkyard(ロンドン)、Dutch Interior(ロサンゼルス)、Coldwave(オーストラリア)、Her New Knife(フィラデルフィア)、Frankie and the Witch Fingers(ロサンゼルス)、Wishy(インディアナ)、fantasy of a broken heart(ニューヨーク)、Man/Woman/Chainsaw(ロンドン)、YHWH Nailgun(ニューヨーク)、Chinese American Bear(シアトル)あたりだろうか。彼らは一日に2度、3度ステージにあがる日も珍しくなかった。

インディーというものを考えた時に、一つは「個人的である」ことが重要なわけだが、そのことを強く感じさせてくれたのがfantasy of a broken heartである。Al NardoとBailey Wollowitzの男女ユニットである彼らは、2017年に結成。その後ブルックリンとロサンゼルスという遠距離で活動をスタートし、2023年からは精力的に音源をリリースするようになった。初となるフルアルバム『Feats of Engineering』を2024年に出し、お披露目のツアーをSXSWで行ったというところだろう。
二人はもともと別のバンドで活動していた中で出会い、文通のように音源をやり取りし、互いの日常で拾い集めた感情を楽曲へと昇華しているようだ。そうした意味では非常に個人的な感性の宿るアプローチではあるが、バンドメイトとガレージに集まり楽曲を制作してきた過去のインディーシーンとは「その距離感」にギャップがある。
また、彼らはリリックの中で個人的な失恋のようなものを取り扱うが、そこに「アニメやゲームのファンタジー作品のような大きな物語」というメタ的な視点を取り入れていることが今の時代らしい。Thundercatなどいかにもなオタクアーティストはもとより、「サブカルチャーやオタク的なものがマス的なものとして、個人の生活に当たり前に加わるようになった」変化が見て取れる。
加えて、チープなビデオゲームのような電子音で表現される80sのようなレトロな世界は、もはや「アニメやゲームと並列な、どこか遠いユートピアである」ということが、Z世代の等身大の感覚なのではないかと思わされた。ユートピアとは、語源を紐解けば「どこにもない場所」という意味だ。そこにはけっして手が届かない。
ただ、いくら個人的な物語がそのスケールを大きくしようと、その出発点が日常であればそこに切実さがこもる。そしてその歌は人を動かす。ベニューの入場待ちで、音漏れを聴いていた人がついつい耳を傾けるほど、うまい・下手を超えた「歌心」が彼らにあったことは書き残しておきたい。
その2:インディーとは小さな範囲で愛されること

もちろん今年も、アンオフィシャルのイベントが開催されていた。アンオフィシャルとは、「SXSWとは無縁の、でも勝手にその時期に便乗して行われる」イベントのこと。そういったものにしか出演しないアーティストもおり、地元のアーティストと遠方から来ていて、できるだけショーをして帰りたいバンドの邂逅の場ともなっている。そうしたイベントがよく開催されているのが〈HOTEL VEGAS〉だ。ここは地元オースティンの音楽関係者の信頼が厚いベニューであり、パティオという500名以上が入りそうな野外のステージに加え、100人ずつは入りそうな2つの屋内ステージも構えていて、常にフル稼働でイベントが行われている、活気溢れる場所である。
最近は、近所に〈Zilker Brewring〉のタップルームができたこともあって、「とりあえず時間が空いたら行ってみるか」といった感じで寄ることも少なくない。いつ行っても、たいてい人がごった返していて、ここに来るとなんだかんだで「予定していなかった良いアーティスト」に出会える。
今年も、そんな感じで「とりあえず」で〈HOTEL VEGAS〉にいたら、オースティンのフォトグラファー兼ライターのブライアンに会った。本当はそのままCase Oatsというアーティストを観に移動する予定だったのだが、「Farmer’s Wifeを観ていきなよ」とブライアンは言う。どうやらメンバーが教え子だったらしい(ブライアンは元々学校で国語(英語)の教師をしていた)。
正直、好物であった。自称:バブル・グランジと評する楽曲は、90年代のオルタナティブ・ロックやシューゲイズを飲み込んだ、シンプルな8ビートに歪んだギターが絡み合う力強いギターロック。ただ、どこか耽美さがにじみ出ているところに、The Smashing Pumpkinsのような夢想的なロマンチシズムを感じさせるものがある。
ライブのパフォーマンスも、叩き上げでここまでやってきたのだろうなと感じさせるものがあった。ボーカルのMolly Massonは非常に小柄で、その衣装はバンド名を想起させるようなチェックのワンピース。一見するとバンドのサウンドとは少しギャップを感じさせるものだったが、何度も身体をのけ反らせマイクに向かって歌い上げる姿にはパワフルながら気品があって、(おそらくオースティンの地元の)ファンたちを何度もわかせていた。
すでにSNSのフォロワーも1万人を超え、アメリカ中をツアーで回るバンドに育っている。それでもここオースティンのシーンで育ったことには変わりなく、彼らが大きくなればなるほど喜ぶのは、長らく傍らで活動を追い続けてきたオースティンの人々だ。パンデミックを乗り越えて真摯に音楽を続けている彼らへの地元からの信頼は厚い。
「帰るべきホーム」を持ったアーティストは、「売れる売れない」といった次元を超えて息の長い活動をすることが選べる。アーティストが地に足をつけて活動をした時、小さくとも深く誰かに刺さる確かな名曲もまた生まれるものだ。

その3:インディーとは歪つであること
今年、最もビビビときたアーティストはフィラデルフィアを拠点とする4人組バンドのHer New Knifeだった。彼らを最初に観たのは3/12(火)の日付がまわるころ、〈Hotel Vegas〉のオーナーが近年経営を始めた〈Chess Club〉でのことである。
彼らはオルタナティブ・ロックやシューゲイズ、ハードコアといったジャンルに当てはめられることが多い。特にシューゲイズについては本人たちもその影響について認めつつも、「どのアーティストも素晴らしいけど、形式的なフォーマットが強すぎて最近はどれも似たりよったりな音楽になっている」と一定の距離を取るような発言をしている(こちらのボストン大学の学生メディア参照)。
その反動か、楽曲はインダストリアルで暗く、重い。そうした音像の中でボーカルのEdgar Atencioがローテンションでボソボソと、そして時になにかに耐えかねたように叫びだす。
まず、初見で驚いたのが音づくりである。音の大きなバンドはたくさんいるし、ノイジーなバンドもたくさんいる。ただ、そうしたバンドと一線を画すような、歪な音づくりに感じたのだ。いわゆる「良い音」とはかけ離れたピーキーな音が要所要所で入る。最近の代表曲“pure pure pure”などがわかりやすいのだが、ギターのBen Kachlerが鳴らす金属音のリフもライブで聴くと録音以上に凶悪で耳につく。「通常、良しとされず削るべき音」を平気でつっこんでくるのである。
ある種、暴力的とも言える逸脱した音は、人の中にある抑えきれない感情を揺さぶるものがあるのかもしれない。この日は激しいモッシュが起きた。暴れたくて暴れるとか、アーティストが煽るとかそういったものでもなく、そのモッシュはただ純粋に「我慢できない!」といった感情の爆発で起きていたように感じていた。その証拠に、モッシュは中盤から最後まで何度も起き続けていて、正直ライブを観るのも大変だった。
思えば、最近のアーティストは「良すぎる」のかもしれない。言い換えれば間違いがない。音楽偏差値が高くて、当たり前のように歌がよくて、ビートのバリエーションがあって、レコーディングの質が高い。そうした中で、この歪な音像に出会えたことは「インディーとはなにか?」という問いに対する回答にもなり得たような気がしたのだった。

結論:洗練も、熟れもしないことは難しい

カルフォルニアの新星Claire Rosinkrantzや、マンチェスター/ロンドンのFreak Slugなどのショーも観に行ったのだが、彼女たちの音楽もまた時にインディーと評されるものには違いない。レベルは高かったのだが、どうにも自分はそこに「熱」を感じることができなかった。
それがなんなのかを考えつつ、後日Her New Knifeのライブをもう一度見に行った時に、その場にいたリスナーが上記の会場よりずっと若いことに気がついた。SXSWは性質上、どうしても音楽関係者が会場に多く、平均年齢が高い。良くも悪くも耳が肥え、「商業的なよしあし」を嗅ぎ分ける鼻を持った大人たちである。そうした「洗練」とはかけ離れたところにあるそれぞれの「切実さ」が、今回紹介した3つのアーティストにはあったように思う。
生活と地続きの「切実さ」が、音楽を「個人的で、小さく、歪なもの」に押し留める。本来、我々人間とはそんな身の程の生き物だったのではないか。その枠を超え、大きな「人類の進歩」を自らの使命と口にするイーロン・マスク的なあり方はそれらとは対極にある。自らも年を重ねて変に洗練されてきてやしないかを問い直し、今年のSXSWのレポートを締めくくりたい。個人的で、小さく、歪な音楽に出会いたければ、みなさまぜひ来年はオースティンへ。
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WRITER

- 編集長
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26歳で自我が芽生え、とうとう10歳に。「関西にこんなメディアがあればいいのに」でANTENNAをスタート。2021年からはPORTLA/OUT OF SIGHT!!!の編集長を務める。最近ようやく自分が持てる荷物の量を自覚した。自身のバンドAmia CalvaではGt/Voを担当。
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