俺の人生、三種の神器 -堤大樹 ②音楽編-
▼俺の人生、三種の神器とは?
人生の転換期には、必ず何かしらきっかけとなる「人・もの・こと」があるはずです。そのきっかけって、その当時は気づけないけれども、振り返ると「あれが転機だった!」といったことはありませんか?そんな人生の転機についてアンテナ編集部で考えてみることにしました。それがこの「俺の人生、三種の神器」。
折角なのでもっとアンテナ編集部員ひとりひとりのことを知ってもらいたい!そんな気持ちも込めたコラムです。これから編集部員が毎週月曜日に当番制でコラムを更新していきます。どうぞお楽しみに!
長い時間を経て、編集部コラムの二週目にようやく入りました。始めた当初は一周するのにこんなに時間がかかるとも思っていなかった、というのが正直なところです (笑)。一回目に書いたのは僕が大学生の時の一人旅の話で、これは自分の中では非常にわかりやすい転機でした。それ以外に自分の人生を大きく変えたものって、色々考えていくとやはり音楽かなと思うんですが転機がいくつかあってまとめるのに悩むんですよね。そんなわけである程度時系列に沿って、紹介していこうと思います。
Red Hot Chili Peppersにハマっていたら、もっと違う人生だったかもしれない
中学生時代、野球部に所属し、パワプロでオールAの選手を作ることに心血をそそいでいた自分にとって音楽は無縁のものでした。両親も音楽を聞いているところなんてほとんど見たことがないし、僕も聞いたとしても流行りの音楽を上から順番にさらう程度。そんな自分がバンドに興味を持つきっかけになったのは親の転勤だった。
中学校時代は名古屋に住んでいたのだが、高校入学のタイミングで愛媛県の片田舎に引っ越しをすることになってしまった。都会の生活に慣れきっていたことに加え、人見知りをする性格だったことが災いして新しい生活に馴染むことができず、高校に行ったり行かなかったりする半不登校のような生活に。そんな中、名古屋に住んでいた友人の”ダンディ”に、愚痴とも相談とも付かないメールをしている中で勧められた音楽がRadioheadとRed Hot Chili Peppersだった。
そもそも広島東洋カープってどんな球団なのか
それまで洋楽は聞かず嫌いをしていて、globeやB’z、ポルノグラフィティしか聞いたことがない自分にとってそれは衝撃的な出会いだった。「こんな音楽があるのか!」とAirbackのイントロでいきなりノックダウンされ、それからOK Computerを延々とリピートをすることになる。RadioheadとRed Hot Chili Peppersを並べてドハマリしたのがRadioheadだったあたりから、今の自分の音楽性の根っこが伺える。しかしまだここでは自分がバンドを組んで、楽器を弾こうという気持ちには至らなかった。
年をとるならあんなおっさんになりたい
原因はわりとはっきりしていて、苦労することなく中高大と進学し、人生をかけて打ち込むことも特にないので、失敗や挫折も覚えることなく年齢だけ重ねていったことだ。小さい頃から周囲に言われてきた「やればできる子」という根拠もクソもない自信のみが肥大して、そこに元々の「他人の評価を過剰に気にする性格」が拍車をかけた。
そうなると失敗が怖く、許せない。だから当時絶対に失敗をしないように、失敗しそうなことは全て避けて生きていた。何より質が悪かったのはそのことに無自覚なことで、無意識のうちに「できないこと」には線を引き、「どうすればできるようになるか」に意識や興味が向かなかった。そんな自分にとって、「海外」は関係のないこと筆頭だ。英語なんか喋れないし、日本で生きていけば関係なんかないのだから。
きっとそれは身近にバンドをやっている人間が少なかったことや、バンドはテレビで見るどこか遠いもの、という勝手な思い違いをしていたからだろう。そもそも引っ越した先は文化的なものの接点が圧倒的に少ない田舎だったのだ。今と違いyoutubeのような便利なWebサービスもなかったし、街にレコ屋やライブハウスはひとつもない。今思えばそうじゃない人もいたのだろうとは思うのだが、高校生時代にそのような人に出会うことはなかった。
そんな自分がギターに興味を持ったのは、さんまのスーパーからくりテレビを見ていた時だった。当時山岸竜之介という5歳の少年が取り上げられていて、彼の夢であるcharとの共演をするという特集だったと思う。その時charのプレイを見て、初めて楽器が弾けることや、ステージに立つことに強い憧れを抱いたように思う。
ナードなやつはとりあえずバンドやろう、それが唯一の突破口だ
昔から一度気になったものには手を出さずにはいられないタチなので、隣町にある楽器屋ですぐに安いストラトキャスターを購入。家でちびちびと練習をすることになる。その頃には友人もできており、その友人と一緒にバンドをやることになった。だが田舎でライブができる場所と言えば高校の文化祭くらいしかない。ただその時すでに三年生で、そのタイミングを逃せば高校生活の中で人前でライブをする機会は失われる。それでも自分の中には踏ん切りがつかないひとつの大きな壁があった。「自分みたいな地味な人間がステージにあがってよいのだろうか?」という妙な卑下である。
あまりにしょうもない、と思うのだがこういう卑下をする人はは今でもよく会う。なにをするにもある種の「資格」的なものが必要で、それがない自分にはできない (やってはいけない) と勝手なボーダーを引いている人だ。自分も完全にその呪縛にとらわれていた。その壁をぶち壊してくれたのが、当時売り出し中だったASIAN KUNG-FU GENERATIONである。
アーティストは神聖・特別なものだと信じ切っていた自分にとって、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのビジュアルは完璧だった。あまりにも普通、どこにでもいる普通のお兄ちゃん。この普通さも完全に計算されたものではあるのだが、そんなことは高校生の自分には知るよしもなく、勝手に免罪符を得たと感じたことで、文化祭へ参加することができた。でも彼らの登場でそんな気持ちになった人も、僕の世代には多いのでは?
その後結果として大学入学とともに京都へ引っ越し、軽音楽部に入部。紆余曲折を経てギターボーカルになり、Amia Calvaを結成して今なお音楽を続けている。そして音楽活動が自分の人生に多くの出会いをもたらした。
向き不向きなど、死んでから判断すればいい
今でも時々自分が何故音楽を続けているのか考えることがある。僕よりも上手で、センスがいい人が世の中にたくさんいるのだ。大学レベルの軽音楽部でもたくさん見てきたし、ライブハウスにもたくさんいた。そんな人を見かける度に正直落ち込むこともあるし、嫉妬して焦ることもある。でも僕をそんな気持ちにさせた多くの人間は先に音楽を辞めてしまった。その報せを聞く度に残念に思うのだけど、何故か僕は一度も「辞めよう」と思わなかった。心のどこかでは、「僕なんかよりは彼らが音楽を続けるべきなのだ」、みたいな気持ちがないわけではない。向き不向きで言えば自分は完全に音楽には向いていないと思っている。不器用だし、経験も少ない、専門的な勉強をしてきたわけでもないから。
でも本当に才能があるかどうかって、いつわかるんだろう?続けていかないと向いてるかどうかすらわからないんじゃないだろうか?これははっきりと答えが見つかったわけではないのだけど、「眩しい」と思ったたくさんの才能に、自分の時間を捧げて挑戦したいのだ。最近は凡人である自分がどこまで本当に才能に対して届かないのか、どこまで積み上げられるのか確認したい。
こうなってくると本当に自分が納得できる作品が完成するのは僕が50歳の時かもしれないし、死ぬ間際かもしれない。その時に初めて自分が音楽に向いていたか、向いていなかったのかわかる。それまでは自分が音楽を続けられる、最高の状況を確保していくだけだ。デビット・ボウイのように、死ぬ間際まで新しいことに挑戦したい。
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WRITER
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26歳で自我が芽生え、とうとう10歳に。「関西にこんなメディアがあればいいのに」でANTENNAをスタート。2021年からはPORTLA/OUT OF SIGHT!!!の編集長を務める。最近ようやく自分が持てる荷物の量を自覚した。自身のバンドAmia CalvaではGt/Voを担当。
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