もっと広がりたい 再び歩み始めたSSWの現在地 ASAYAKE 01インタビュー
2018年を駆け抜けた中村佳穂の『AINOU』。僕がASAYAKE 01を知ったのは、彼が参加していた表題曲“AINOU”だった。それから数ヶ月経って彼は自身のミニアルバム『S S W』をリリース。7年間活動を停止していた彼の帰還がどれほど待望されていたのかは、昨年末に企画した『お歳暮企画 | アンテナとつくる2019年の5曲』において数多のミュージシャンが彼のことを取り上げていたことからも伝わってくる。まさに、真打ち登場といったところだ。
2019年のボロフェスタで観た彼のライブ。SSW、シンガーソングライターという生態の業に生々しく向き合う彼の姿に、僕は胸が締め付けられたことを思い出す。口に出すのもはばかられそうな赤裸々な思いは、彼の一筋縄ではいかない歩みを物語っているようでもあった。今回、帰ってきた彼の現在地を探るべく、前半では最新作『S S W』に込めた思いと復帰の年となった2019年の活動について、後半ではSSWとしての生い立ちから活動休止を経て今に至る流れと今後の展望を語ってもらった。彼がライブの現場に戻ってくるまでにどのような葛藤があったのか、そして、これから目指す先になにを見ているのか。
復活作『S S W』と、過去を埋める2019年。
ナードマグネットの須田さんのラジオ番組にゲスト出演された際、「“ゴースト”ができたことが活動を再開するきっかけになった」と言っていましたね。その時の思いを改めて聞かせてください。
“ゴースト”はライブ活動を止めて音楽に対する情熱を失くしていた自分が「もう一回やってみようかな」という気持ちになった時に作った曲なんですよ。自分の事のように歌う反面、頭打ちになって同じような経験や境遇をした人って沢山いるんだろうなって思って。自分のことを表面上では歌うけど、誰かと共有できる奥の世界をすごく意識して作ったんです。
奥の世界というと。
一番言いたいことを言ってないんですよ。“ゴースト”で一番聴いて欲しいのは2番のサビの後の間奏で、あそこで「いや俺はまだゴーストじゃないよ」っていう感情を音で表現しています。理屈じゃない事もあるじゃないですか、もう一回やろうって気持ちって。辛いこともわかってるのに、言葉にならない感覚を表現できるのは音楽のすごいところだし、それを表現したくて“ゴースト”を作りました。そうしたら僕の中でしっくりくるアレンジになって、曲作りに再びはまっていったんですね。そしてミニアルバム『S S W』に入る曲ができて。
“S S W”も、自問自答でありながら、苦しみながらも表現しようとしている人にも向かっている曲だなと思いました。
これは“ゴースト”のアンサーソングです。自作自演アンサーソング。“ゴースト”の、自分で勝手に始めた音楽に勝手に嫌気がさしてうじうじしてるのに対して「いやいや全部自分の一人芝居やから」と思いっきり自分で自分のケツを叩く、というのが“S S W”。現実を知りながらそれでも動くってすごく強いと思うんです。罵倒しかしてないですけど、そういう意味で自分を鼓舞する歌でもあって。「無名であろうと好きなんやったらガタガタ言わずやろうぜ」ってのが、最終的に僕が出した活動を再開する答えです。
シンガーソングライターの在り方に対して否定的な言葉が並ぶけど、そうじゃないと。
よく言われるんですよ。この前もシンガーソングライターの子に「この曲を聴いてると胸が痛い」って。「ごめんなさい」とも思いながらも、別にディスってはないんですよね。「好きな事を全うするのは大変な事だけどそれでも好きなら続けよう」ってことを僕なりにこの曲に詰め込みました。
ASAYAKE 01さんの中でも売れる売れないってのは葛藤としてあったんですか。
活動を止める前は漠然と売れたいと思ってたんですけど、今僕は広がりたいです。そんな感情のもとに動いてます。
今あえて「広がる」って言葉を使ったのは。
知ってもらう、足を運んでもらう、共有してもらう。「売れたい」と一緒かもしれませんが、そういう広がりに今意識を向けながら音楽を作ろうと思ってます。自分の世界を保ちながら音楽性や活動を広げていくにはどうしたらいいかってのを意識していこうと思っています。
方法としては何か考えてますか。
まず強度の高い曲を作ることですね。ライブで聴いた時に、別のアーティストを観に来た人たちが「めっちゃいい、なにこの曲」って思うような曲を、自分が踏み込める領域ギリギリまで踏み込んでやってみようかなって思います。まだいける、まだ思ってたより崖じゃないなってのを新曲作りで見極めてる感じですね。
そのギリギリの崖を見極めている中で、自分らしさ、領域ってどういうものだとお考えですか。
演奏してみた時に「あ、これあり!」って自分が感じられたらいい。歌った時に「全然迷わず歌える」ってなる感じ。例えば男性の僕が女性の言い回しで歌うのはなかなか難しいじゃないですか、そういう分別の感覚です。
2019年は本格的に活動を再開した一年でした。振り返ってみてどうですか?
2019年は止まっていた7年間をどう埋めていこうかという時間でした。久しぶりに福岡に行ったり、東京で7年前に企画に呼んでくれた人が働いてる店にライブしに行ったりとか。もちろん新譜を引っさげて行ってるので、知らない人にも知ってもらうという意識もありつつも、過去を埋めていくっていうコンセプトはなんとなく持っていましたね。
過去を埋めていく。
いきなり復活したから、忘れずに僕を待っててくれた人、いなくなった人、そこで新しく知ってくれた人たちに、今の自分を知ってもらうのが2019年でした。
手応えはありましたか。
少し……(笑)。 ただ思ってたより待ってくれてた人達が沢山いた事が嬉しかったです。「もう会えない」と思っていた懐かしい人たちもフラっと来てくれたり。「7年も活動を休むってなんなんすか、長すぎる」なんて怒られたりもしましたね(笑)。確かに7年て長いです。仕事も変わったり新しい生活が始まっている。
やっぱり7年の間にあったことって空白ではなかったのかなって思います。ASAYAKE 01さんの中できちんと過ごされていたから。
確かに本当の空白ではなかったですね。7年間全く何もしなかったらもっと忘れられてたかもしれないし。特別な7年間ですね。全く無駄ではなかった。自然とようやく、「よしやろう」ってなるのに7年かかったって感じですね。
「君、天才だよ」SSWとしての生い立ちから活動を止めるまで
『S S W』もそうなんですが、ASAYAKE 01さんの音楽はシンガーソングライター然としていながらヒップホップやR&Bのブラックのフィーリングを感じます。どんな音楽に影響を受けていますか。
高校の時ヒップホップが好きになって、その界隈の友達から教えてもらったMarvin Gayeには特に影響を受けました。そして、D’Angelo。彼のような音楽をやりたいと思って続けていたところはあったので、とても真似できないけど僕が影響を受けた一番のアーティストじゃないかなと思います。
D’Angeloのことは曲にもしてましたね。では実際に曲作りを始めたのは?
岡山の大学に入ってから、暇過ぎて路上で弾き語りを始めたんですよ。簡単なコードでいきなり曲を作り出して。まあクオリティは置いといて、コード2つでも曲はできるじゃないですか。日記みたいなものを書いたら一応歌詞にはなるし。それが弾き語りを始めた第一歩ですね。
それから大学卒業とともにすぐに大阪に戻って来ました。その頃、実は誰に披露するでもなくヒップホップのトラックを作っていて、友達のクラブイベントに出演させてもらった時に、そのトラックをつなぎながらたまに歌うみたいなことをやってました。その時に名乗ったのがASAYAKEって名前です。
それは音楽でやっていこうと思っていた段階だったんですか?
いや、今思うと結構ふわふわしてました。たまたま片手間でやってたらそれっぽいものができて、友達は褒めてくれたりしてたんで、調子に乗って続けてたって感じですね。そんな時に友達のイベントでオオルタイチさんと共演したんですよ。初めて同世代の天才を間近で体験して衝撃を受け完全に打ちのめされました。ほぼ立ち直れないくらいに。
このジャンルでは敵わないと思ったんですね。
ASAYAKEとしての活動がそこで終わって、ちょうど深夜のコンビニで働いてた時に大阪のneonsignってバンドの山本剛くんもたまたまそこで働いていて。仲良くなって、neonsignを始めて観に行ったのが梅田のハードレインです。実は大阪の小箱のライブハウスに行くのはそれが初めてでした。
それはカルチャーショックでしたか?
やっぱりクラブとは違った面白さがありましたね。それから次に観に行ったのがpara-dice。まだ当時はdiceって名前だったんですけど「こんな狭いのに爆音やし、歌詞全然聞こえへん……。」って感じで衝撃でした(笑)。
なるほど、確かにクラブとは違う生演奏の迫力ってありますもんね。初めてならなおさら。そこから出演するようになるきっかけはあったんですか?
当時はもう就職しようかなあって思ってた時期で。でもその前に「そういえばもともと一番最初音楽始めた時って弾き語りだったよな」とふと思ったんです。それだったら就職活動をする前に自分の音楽活動に一区切りをつけてみようかなと思って、はじめてneonsignを観に行ったハードレインで弾き語りライブをやりました。
原点に立ち返るわけですね。
そうしたら当時の店長さんが僕のライブを気に入ってくれて。まさかそんなに気に入られると思わなかったんすよ。やったライブも4つのコードで、書きためた歌詞をアドリブ交えて歌うだけ。自由奔放に自己満足のライブをしたんですが、それが受けて「面白い!」「ぜひまた出て!」って言われて。
それは嬉しいですね。
じゃあもう1、2本、みたいな感じでやっていく中で、diceもこのスタイルで一回出てみようって思ったんです。当時ブッキングをやっていた本城タカヒロさんが初めて僕のライブを観た時に目の色を変えて「君、天才だよ」って言ってくれて。そこでまた気分が良くなって。その時はまだ就職しようと思ってたんですけど、人生で初めて「天才や」って言われたもんだから、この天才度を追求してみようと思って、就職活動をやめてASAYAKE 01って名前でライブ活動を始めました。それが本当の始まりですね。
そこで褒められなかったらその時点でやめていた。大きな転機ですね。
そこからですね。始めはコードが3つだけの曲でも、その日その日のノリでバーっとやってたんですよ。でも自分の癖でライブをしてるんで、フリースタイルといえどもだんだん形になっていくんですよね。それで、2007年に出した『都会というよりその下で生きる』というアルバムの中に入ってる曲ができました。
それじゃあ曲を作ろうとして作ったというより、むしろ自然と形になっていったというか。
そうですね。完成された曲をやるのとはまた違った気持ち良さはありました。自由奔放に演奏してたので「何このライブ!?」みたいな反応もあったんですけど 、その中でも熱狂的に面白いって言ってくれる人が出てきて。
それからneonsignも共演したし、あとは京都のLLamaや、キツネの嫁入り、senoo rickyが当時やってたシスターテイルってバンドとかと仲良くなって。あとnanoですね、「友達なろー」みたいな感じで店長の土龍さんが言ってくれたり、ライブハウスにいる面白い大人の人とどんどん知り合っていきました。でも、今思うとライブはなんとなくやってました。
なんとなく。
なんていうかな、漠然と「売れたいな」ってどこかで思いながら、出会った人たちと自然と絡むサイクルの中でどんどん生きていくようになって、自分から求めるんじゃなく与えられたモノの中だけで回るというか。良くも悪くもそれがすべてになっていったんですよね。
そこにあるとき気づく。
新曲もできなくなってきて、同じ曲をずっとこねくり回しながらライブをしていくうちに「何してんやろ?」みたいに感じはじめて。同じサイクルの中で次のステップも考えないまま同じことをやっているのに疲れてきて、その感覚がどんどんねじれていって活動を止めるきっかけになっていった気がします。
今、あの世代の関西のメンバーが徐々に売れ始めてるのが面白いなって思って。それこそsenoo rickyさんは折坂悠太の重奏で、LLamaの吉岡さんもSawa Angstromで活躍されていますね。
同世代に近いところで言うと、Baconもすごいですよね。2019年ってそういう年だったかもしれませんね。僕に近い世代が回り道しながらまた新たなスタートラインをみつけ、シーンを引っ張り上げていく。
ASAYAKE 01さんも含めて、辞めなかったことはすごく意味があることなんだなって思いました。
うん、続けていけばいく程しんどい事って増えていくけど、それでも続けていく人の芯はすごく太くて強いですよね。僕は一度止めた側なので尊敬しかないです。
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はろーべいべーあべです。フェスティバルとクラブカルチャーとウイスキーで日々をやり過ごしてます。fujirockers.orgでも活動中。興味本位でふらふらしてるんでどっかで乾杯しましょ。hitoshiabe329@gmail.com
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