息苦しい時は、ただ環境が変わるのを待つだけでいいんだよ
バーで隣に居合わせた知らない人に聞いてもらう、愚痴。別に的確なアドバイスが欲しいわけではない。誰でもいいから、なんとなく話を聞いてほしい。家族や友人の前、職場では弱いところを見せたくないプライドもある。10代の頃にはなかった不安や葛藤、思い通りにいかないもどかしさに、押しつぶされそうになりながら毎日を生きているのが大人だろうか。
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シンガーソングライター・黒沼英之が10年振りとなる活動再開後、2作目としてリリースした“Selfish”は、都会で暮らすある人間の、電車で職場と家を往復する毎日の息苦しさを独白している歌のようだ。昨年11月に突如配信された前作“HOPE”に続き、シンガーソングライターの松室政哉をサウンド・プロデュースに迎えたという本作。軽快なサウンドが、沸々と生まれる不安や憂鬱を一層掻き立てる。
「押し込まれた箱に揺られて
⼼が消えるのを待っている
なんて⾔えないよね」
ピアノで始まる”HOPE”とは打って変わって、DTMの洗練された都会的な音作りで、思春期に多少憧れた「嘆いている都会の大人像」に浸らせてくれるかと思いきや、全然そんなことはない。次から次へと続く陰鬱とした言葉に、正直なところ、何度も繰り返して聴くとしんどくなってくるような切実さが、徐々に浮かび上がってくるのだ。
「どうなったっていいよ
だってもう⾔葉じゃ⾜りないんだ
いっそもっと深く沈みたい」
そんなストーリーの中でも、伸びやかな歌声が魅力だった黒沼の更なる歌力も感じさせてくれる。「だってもう」と「足りないんだ、いっそもっと」と息継ぎができない譜割りは、息苦しそうな歌い方が聴いていると気持ち良いというアンビバレントな魅力となっている。歌詞は多くを描きすぎない、寓話のような距離感の心地よさがある一方で心を揺さぶられるのは、声の表現力のなす技だろう。
ジャケットのアートワークを担当した画家の安藤智が描いたMVの題字は、タイトルの「Selfish」が「Sel」と「fish」で改行されている。海の中で、泳ぎ続ける魚に、都会の海の中で息苦しい登場人物を重ねているようだ。映っている景色が意味を持たず、ただ横に流れていく映像から構成されるMVは、心を失った人物が見ている風景に重なる。
しかし知っているだろうか。雨で表面が濁った海も、底は澄んでいるのだ。そして海流などの作用があると、一瞬で水が入れ替わり、たちまち澄んだ海に変わる。配信限定でリリースされた”Selfish”を流していると、次に流れたのは前作の“HOPE”だった。何をしても心が晴れやかにならない時は、水が入れ替わるのを、ただ海の底で待ってみるだけ。今は苦しくて何もできなくても、いつかは希望が見えるはず。だから安心していいよ。直接「大丈夫だ」と言わなくとも、どん底の人物の心象を描くことで聴き手の孤独を和らげてくれる、そういった遠回しで不器用な優しさは『イン・ハー・クローゼット』から変わらない黒沼節だ。
黒沼英之
シンガーソングライター。2012年10月に『イン・ハー・ クローゼット』をリリースし、2012年11月に東京の〈WWW〉にて初ワンマンライブを開催。《SPEEDSTAR RECORDS》に移籍し、2013年6月に『instant fantasy』、2013年11月に“パラダイス”、2014年2月に『YELLOW ORCHER』等の作品をリリースした後、音楽活動を休止。2023年11月活動再開を発表、約10年ぶりとなるシングル“HOPE”をリリース。
Webサイト:https://kuronumahideyuki.jp/
X(旧Twitter):@hi_kuronuma
Instagram:@kuronuma_hideyuki
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WRITER
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97年生まれ、みずがめ座。中央線・西荻窪→小田急線・成城学園前。ANTENNAのほかMusicmanなどで執筆。窓のないところによくいます。
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