「あなたはブサイクだから」の呪い|魔法の言葉と呪いの言葉
言葉。それは、心の中で生まれるイメージを自分や他人に伝えるために生まれた“道具”だと言われている。人が使う道具は、誰がどのように使うかでその様相を変えてしまうもの。例えばヒガンバナのような薬用植物が薬にも毒にもなるように、だ。言葉も使い方次第で、魔法のように自分自身のチカラを引き出してくれることもあれば、呪いのように作用して身動きがとれなくなってしまうこともある。思い返せば、誰しもがそんなチカラのある言葉に翻弄された経験があるのではないだろうか。あなたにとって、「魔法の言葉」「呪いの言葉」ってなんですか?
幼い頃、母親に言われて子供ながらに衝撃的だったのが「あなたはブサイクだから、勉強しなきゃいけないの」という言葉。ひどいなぁと今なら思うけど、当時は別に傷ついてはいなかった。小学校では勉強しなきゃいけない理由が「ブサイクだから」と言う人はいなかったので、理解はできなかったと思う。だけど比較的誰が見ても「かわいい」と言われる顔の母の言葉に妙な説得力があったからか、繰り返し言われるうちに、そういうものなのだと思うようになった。
親が悪気もなく、むしろ教育のために積極的に繰り返していたこの言葉は、幼い私に2つの思い込みを生んだ。1つは外見が母の好みでないことはブサイクなのだということ、もう1つはブサイクは損だということ。しばらく私は「自分はブサイクなんだ!」「ブサイクは損だから、何か他の長所でカバーしなきゃいけないんだ!」という価値観に取り憑かれることになった。
だから中学時代、女子校の中で見た目に言及されることをひたすら避けていたし、勉強一筋で趣味は数学検定(!)。しかし高校に入り、男の子と話す機会が増えて突如言われるようになった言葉は、狭くなっていた視野を広げるきっかけになった。
「髪、きれいだね」。
髪……?見た目を褒められたことは初めてだった。女子より男子の方が長い髪に憧れがあったのか、男の子は髪を褒めてくれることが多く、「どうやら長い髪を素敵と思う人がいるらしい」と思うようになった。たしかに、平安時代は長い髪が美の象徴だったと言うし……(と塾で勉強した知識で自分を納得させた)。別に顔を褒められているわけではないのだが、見た目は顔だけではなく、好みは人によって違うんだ!という当然のことに気がついた。
そうして見た目を諦める日々は脱出したのだが、「ブサイクは損だ」という考えからは抜け出せなかった。そうすると今度は素敵に見られるには見た目をどうすればいいのか?と考えることになり、関心が「どう見られるか」という問題に広がっていったのだ。
そして自分が素敵だと思うのはどんな人だろう?と考えて出た結論は皮肉にも、周りの目を過度に気にせず振る舞いが伸び伸びとしている人だった。ないものねだりかもしれないが、身の回りの素敵だな〜と思う子はみんな、小さい頃から親に「かわいい」と言われて育っていた。本音は分からないが、実際の顔立ちがどうこうではなく、「かわいい」と言われていれば「かわいい」は自明のことで、どう見られるかは改めて気にするほどの関心の対象ではないのだろうと衝撃を受けた。
一方の自分は、頭では理解しても、周りからどう見えているか気にしてしまう性格がさほど変わっていない。周りの目を気にして自分に正直になれないなんて、私基準で素敵じゃない!自分で素敵と思える自分になりたい。だからこの呪縛から抜け出したいけど、小さい頃から言われ続けた言葉でガチガチに固まった地盤はなかなか崩れない。見た目に囚われない人になりたい、見た目に囚われている身だ。
母の時代は「男は度胸、女は愛嬌」などと言われていたようで、その言葉の通り母は「女は愛嬌」と思っていたのだろう。だから愛嬌がない私に、代わりとして勉強を提案していたのだと今でこそ理解はできる。今は性別によって生き方を決める必要はないし、世の中は確実に見た目による生きづらさから解放する方向に動いている。だけどルッキズムは、実は目立ったところではなく、家庭などの外から見えないところから蔓延しているのではないか。子供の頃に染み付いた価値観はなかなか変わらないから、親の言葉は「呪い」になりやすいのだ。価値観を縛ってくるのも言葉なら、視野を広げてくれるのもまた言葉。でも若干、縛ってくる「呪い」の方が強い気がしている。
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97年生まれ、みずがめ座。中央線・西荻窪→小田急線・成城学園前。ANTENNAのほかMusicmanなどで執筆。窓のないところによくいます。
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