街並みを守っているのは誰?今知りたい、景観のはなし
無くなると知って、ようやく気づくことがある。当たり前に存在していると思っていたものが、当たり前ではなかったということに。私たちの側にある見慣れた街並み。これもその一つではないだろうか。そんなことを考えるきっかけとなったのは、今年の1月のこと。京都のあるライブハウスのシンボルともいえる壁面イラストが市の景観条例に反するため営業が危ぶまれるという事態が起こったのだ。この場所に関わる人達にとって大切な景色が、大きな社会の枠組みの中ではそうではないという事実。大切な場所を守るために声をあげたい、という一方で、観光都市として京都が街並みを守っていることもわかる。
この件はというと、程なくライブハウス側と市の職員の間で話し合いがなされ、すぐに壁のイラストを消さないと営業停止になるというわけではなく、前向きにどうするか考えていくことで落ち着いた。あらためて周りを見渡してみると、ルールは守られているのかもしれないけど個性を失った同じような街並みや、これまでの街の歴史を配慮せずさぞ新しい魅力をとってつけたように発信させられている場所もある。
一体、街の景観とは誰のものなのだろう。そんな、もやもやとした思いをどこにぶつけたらいいのかと考えていた時に、地域が主体となった景観まちづくりを支援する人材を育成し地域のサポートしているNPO法人 京都景観フォーラムという団体の存在を知る。ひとまず足がかりになればと「街の景観は誰のものなのか」という疑問をぶつけてみることにした。
森川 宏剛(Morikawa Hiroyoshi)
NPO法人京都景観フォーラム 専務理事
1968年奈良県生まれ。
京都大学工学部卒。都市計画コンサルタント、京都市景観・まちづくりセンターを経て現職。祇園新橋、嵐山等の京都市内のまちづくり組織の立ち上げ・運営支援や、景観まちづくりを支援する専門家の養成などに取り組む。
共著「まちづくりコーディネーター」(2009年 学芸出版社)
共著「京都から考える都市文化政策とまちづくり」(2019年ミネルヴァ書房)
京都らしい景観の背景にある“生活文化”
今回、私たちのこの疑問に答えてくれたのは、NPO法人京都景観フォーラムで専務理事をされている森川さん。まず、彼が教えてくれたのは「京都らしい生活文化が景観の背景にはある」ということだ。
「京都という街の景観は、都市の価値を構成する文化自体に深く関わっています。」と森川さんが話すとおり、1200年を超える歴史を積み重ね、山紫水明と称される豊かな自然があり、地域ごとに特色のある景色を育んできた京都の町並み。これは一朝一夕にできたものではない。人々が暮らしの中でつくりあげてきたものだ。京都では国内ではいち早く1972年に「京都市市街地景観条例」を制定してからも、市をあげて景観を守るために取り組みが続けられている。高さ規制や屋外広告には、ほかの都市以上に厳しい規制がひかれているといえるだろう。でも、規制をかけるだけで景観は維持できるのだろうか。
景観の均一化により増加した「及第点のデザイン」
「京都市は『新景観政策』※で景観をよくすることで都市価値をあげようと打ち出しました。大筋として景観を守ることで、京都にある文化資本を消費させずに蓄積させ、そのことが結果的に経済価値を生みだすということを証明した。ある意味、政策が成功していると評価はできると思います。しかしその結果、いろいろな課題も出てきました」
※新景観政策 平成19年9月に京都市が施行した景観政策。建物の高さとデザイン及び屋外広告物の規制等が見直された。
「結果的に『新景観政策』で、奇抜なものや京都の街並みにあまりにも合わないものを排除することはできたと思います。でも、「こんないいものがあるけど、どうやろ?」のような新しい提案がでてくるかというと、そうではない。デザインって、数値だけで割り切れないじゃないですか。数値基準を守る範囲で一番これが効率的だという考えで作ったものがたくさんできると、及第点だけど魅力的ではないものが増えてきちゃったんですね。ルールを決めて杓子定規に守るという話ではなくて、グレーな感じだけども、その中で試行錯誤しながらいいものを考えていこう、ということが景観づくりではないでしょうか」と森川さんは答えてくれた。
明文化されない「お茶屋の女将の感覚値」の懐の深さ
京都には行政が決めたルールのほかに、暮らしていくうちに作られた暗黙の了解のような地域独自のルールがあるという。森川さんはいろいろな地域のまちづくりをサポートする中で、当たり前のように守られてきた地域独自のルールにほころびが生まれていると実感しているそうだ。風情ある町並みを守ろうにもそこに住む人、新しく来る人と明文化されていないルールを共有することが難しくなっているという。
そこで、京都市では『地域景観づくり協議会制度』※を活用し、地域が主体となって景観づくりの方向性を明文化し、だれでもわかりやすくルールを共有し活用していく取り組みが増えているそうだ。
※地域景観づくり協議会制度 地域の方々が想いや方向性を共有し、更には、新たにその地域で建築等をしようとされる方々と一緒になって地域の景観づくりを進めて行くことを目的とした制度。平成23年4月から実施された制度で、これまで12の団体が協議会として認定されている。
地域の協議会が関わるまちづくりの一例として森川さんが話をしてくれたのが、祇園新橋景観づくり協議会の取り組みだ。
森川さんが写真で見せてくれたのは、祇園新橋のお茶屋の町並み。そこには、お店によくあるのぼりや看板が見受けられない。実は、行政のルールに準ずるともう少しのぼりなどを立てることもできるそうだ。ではなぜ、行政よりも厳しいと思われるルールを守ることができるのだろう。
「祇園新橋の看板のルールを考え直そうという話になった時、きちんとしたルールが存在していなかったんです。そこで“看板の良し悪しを判断する基準ってなんやろう”って話になった時、祇園で長年商売している看板屋さんに、看板の良し悪しを聞くと「これは怒られるんちゃうか?」とか「これは大丈夫やろう」っていうのを教えてくれる、っていう話が出たんですよ。誰に怒られるのかを聞いてみると、祇園のお茶屋の女将さんなんです。でも彼女たちはシンボリックな存在で、女将さんに代表される地域の人達に怒られるという意味なんでしょう。地域の人達は小さい頃からそうやって行儀作法やらお商売のやり方やらを教わるそうです」と森川さんは話す。
「では、その良し悪しを判断している女将さん達はどのように看板を判断しているのでしょうか」と尋ねると、返ってきた答えはこうだ。
「別に数値基準があるわけではないんです。感性ですよね。結局、女将さん達が長年祇園で生きてきた中で、身につけてきた美意識とか祇園新橋らしさをその物が体現しているか、合うか合わないか、調和するかしないか、そんなことで判断をしていると思うんです。女将さんをシンボリックな存在として、地域で共有されている価値観があり、それがルール、規範として機能しているということだと思います。
女将さんが良し悪しを判断する仕組みはもちろん基準となる数値がないので、新しいものも、受け入れることができていたんだと思うんです。新しいものも全てがダメではなく、実はいいものがあるかもしれないんです」
祇園新橋では、数値化しない基準を共有してきたからこそ、新しいものも寛容に受け入れられる土壌があったのだ。だから、暗黙の了解とルールを守り、風情を守りながらも画一的にならず新しい魅力を街に取り入れられたのだろう。
「数値で杓子定規にやるのはきっと効率的です。でもみんなで話をしながらいいものにするとか、新しいものも良いものは良いと受け入れていくことが本来のまちづくりのあり方ではないかと、考えています。それぞれの街にあったやり方をトライアンドエラーを続けて探していくというのが、答えに近づいていくことなのかなと思っています。」
街を作っているのは人だからこそ、人と人が話をする中で判断をしていくことが大事なのだ。
景観は集団で作られるもの。育てたいのは共同意識
街で暮らす人達のつながりが、以前よりも希薄になってきているように感じる昨今。昔ながらの地域コミュニティが断絶することで、共同体が失われ、街に対して共通の想いを持つことが難しくなってきているのだろう。もちろん、古い体質や狭い価値観をそのまま継承していくということではない。街に新しく来る人達とも交流し、新しい考えを内包しながら地域としての価値が損なわれないようにいい意味での景観が守られていくサイクルを作ることが今、必要となっている。
例えば、記憶に新しい京都大学の名物とも言える吉田寮周辺の立て看板が京都市の屋外広告物条例に違反していると問題なった事件がある。条例的には違反となるが、周辺住民や関係者から‟立て看板は京大の文化である”や‟立て看板は組合の維持や運営に必要不可欠”などの声があがり、今も話し合いが続いている。(2021年4月現在)また、最終的には建設されてしまったが、京都の老舗旅館俵屋の南側にマンション建設が決まった時は、旅館の価値が損なわれると文化人が署名をするなど反対運動が住民以外からの声が集まったケースもある。街を誰のものと限定するのはとても難しい。森川さんも地域のみんなを限定するのが難しいと、次のように話てくれた。
「地域のみんなっていうのは誰なのか。それが難しくて。基本的には地権者であり建物の所有者がベースにいるんですが、その場所を使う人も関係者になる。その中で、どういうみんながいて、それぞれがどれくらいの権利を持つのかというのはその集団の作り方というのが大事なんですよ。
京都景観フォーラムで掲げている‟わたしたちの街をわたしたちで育てる”という言葉。この「わたしたち」を構成するのは一体誰なのか、はよく考えます。その街に関わる人達が「わたしたち」と言える、共同的な主体になれるかが重要になってきます。
協議会とか立ち上げるというのも実はそういうい意味合いが含まれています。「わたしたち」っていう共同主体を立ち上げることに、意味があるんです」
街に住んでいない人がその街やお店などに思い入れがあったとしても、何かを変えることは難しいそうだ。しかし行政には行政の、住民には住民の、滞在者には滞在者の、それぞれの価値観が景観をつくる一端を担っている。いろんな想いが積み重なって、私たちの街を作っているのだ。そして、景観は未来へと続いていくものである。だからこそ、それぞれの想いを人と人とが話し合うことでよりよい景色が描かれていくのではないだろうか。そう、この景色を私のものだと思うひとの行動が景色を作っていくのだから。
京都景観フォーラム Webサイト https://kyotokeikan.org/
WRITER
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奈良県出身。京都在住。この街で流れる音楽のことなどを書き留めたい。
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