
感性が響き合う〈しばし〉という余白の在り方
京都・岡崎、喧噪からは少し離れた日常の中に潜む豊かな世界に入り込める居場所、それが〈しばし〉だ。昼は喫茶、夜はBar、時に高座やライブステージにも変容するその空間に足を踏み入れると聴こえてくるのは、ビンテージオーディオから流れる音楽に混じり合う、談笑する人々の声音、食器が触れ合う音、風が窓を揺らす音……。ここにいるだけで自分自身も音楽の一部になるかのような不思議な心地がする。この場所はどのように成り立っているのか、〈しばし〉の運営を行っている中村周市さんに話を伺った。
京都という街が生み出す余白によって生まれた〈しばし〉
ブライアン・イーノ、レディオヘッド、CAN、オクノ修、冥丁……。棚には、その人が積み重ねてきた時間と感性が静かに宿るというが、〈しばし〉のレコード棚も、まさにそれを体現している。名盤から新譜まで多彩なレコードが並ぶこの棚の持ち主が、今回お話を伺った中村周市だ。
彼のキャリアをたどると、レコード会社 東芝EMI在籍時にはビースティ・ボーイズやプリンスなど、いち音楽ジャンルをつくってきたような先鋭的な海外アーティストの制作を担当。その後、アンダーワールドやザ・ホワイト・ストライプスなど、エレクトロニック、オルタナ、アンビエント、実験音楽などジャンルを越境しながら、アーティストの先鋭性や独自性を重視する《V2レコーズ》のジェネラルマネージャーとして手腕を発揮した。現在は、音楽レーベル《Traffic》を経営し、ニュー・オーダー、CAN、テリー・ライリーをはじめとする国内外のアーティストの作品を手がける。本来の音楽レーベルのみながらず、『AMBIENT KYOTO』などのイベントの主催、〈しばし〉の運営といった、ライフスタイルに根差した活動を行っている。
レコードプレーヤーはGarrard、Mullard製の真空管が据え付けられたアンプはLEAKといずれもイギリスのビンテージオーディオで、LOCKWOODのスピーカーから放たれる音はまろやか。心地よく室内の空気を震わせているが、長きに渡り仕事として音楽に向き合ってきた中村がオーディオに本格的にのめり込んだのはここ10年ほど前からのことだという。
「オーディオにのめり込んだのは、京都に来てから運良くとても良いビンテージのスピーカーを手に入れてからです。オーディオ・ライフの楽しみは、単に良い音を聴くというより、その作品の真髄に触れるようなことができた感動といった方がいいかもしれません。当時、ふらりと遊びにきたオーディオに興味がない友達もびっくりしていたので、マニアとか関係なく、多くの人に良い音は届くんだなと思いました。〈しばし〉を運営する時に、みんなが集いやすい、何か中心的なものが必要だと思っていたんですが、レコードを持ち込んだら、オーディオを中心とした面白い空間にできるんじゃないかと思いました」
現在は京都で過ごすことが多い中村だが、東京を仕事の拠点としていた彼が京都に足を運びはじめたのは2016年頃のこと。『AMBIENT KYOTO』を主催するなど、京都と東京を往復する日々が続いていた。なぜ、東京ではなく京都に新しく「場」をつくろうと思ったのだろうか。
「ずっと音楽レーベルをやってきて、アーティストの作品を世に出す媒介者ではあったわけですが、それだけでなく、ライフスタイル全般に目を向けたこともやっていきたいと、京都に来る前からなんとなく思っていました。京都には、文化も自然も、そして大きな歴史があり、それらが密接につながった日常・非日常の世界があります。また新しいことも受け入れる土壌があるので、京都に来て日々過ごしていくうちに、その思いが強くなり、『AMBIENT KYOTO』を開催しました。でも展覧会は閉幕と共にその空間がなくなってしまうし、会社の事務所は関係者に限られる。だからまずは、固定した場所でいろいろな人がクロスオーバーできる基地のような場所があるといいなと思い〈しばし〉をつくったんです」
京都に暮らすようになってから、月を眺めることが楽しみになったという中村。東京では見上げることのなかった空に目を向けるようになり、ライフスタイルも大きく変化した。日々の生活に余白が生まれたことで、これまでのようにレーベルとして音楽作品を出し続けるのではなく、もっとライフスタイルに根付いた‟面白いこと”に挑戦してみたいと思うようになったという。京都という場所で気づいた日々の中に潜む余白が〈しばし〉という場を生み出すきっかけとなったのだ。
感性がクロスオーバーし、場所を面白くする
京都という街はコンパクトで、情報が伝わりやすく、コミュニティーも生まれやすい環境である。さらに個人店も多い。その場にいるだけでクロスオーバーが生まれていきそうに見えるが、中村は〈しばし〉を構える際には、それは自然には起こりにくいから意識的な取り込みが必要だと感じた。
「京都に限らず多くのところがそうだと思うんですけど、特定の層の中ではクロスオーバーは起きやすいですが、この細分化された世の中にありながら、より多角的・重層的にそれをするには、まずはそうしたいと思ってもらえる場をちゃんとつくらないとな、と思いました。通常営業の喫茶ではオーディオ・食を中心とした場作りを。企画では、うちでやったらどうなるのか見てみたいようなアイディアをみんなで持ち寄って、落語や音楽ライブ、雑誌の特別企画、藍染作家やファッションブランドの個展、試聴会、食の企画、トークセッションなどを月に3回ほど行って、徐々にいろんな方々・ものが混じり合ってきているところです」
〈しばし〉という名をつけたのは、中村とともにこの場所を立ち上げた〈山食音〉の東岳志。玄関に掲げられた表札の文字は、テリー・ライリーによるものだ。タータン柄が印象的なふすまは、知人である唐紙工房「かみ添」が手がけ、喫茶メニューのひとつである漢方茶は、中村の友人である漢方医が監修している。器、家具、暖簾などの多くは京都に来てから出会った人・縁・ものから成り立っている。それが原型となった〈しばし〉は、すでにスタッフ・企画などで関わった関係者、お客さんなどの縁によって、共に日々変化している。好きなものをコレクションしているわけではなく、これまで積み重ねられたものを礎に磨かれただろう感性から選んだものをベースにまだ知らないものに出会ったり、新しい試みに挑戦したいと考えているというのだ。
「例えば、曲でもアート作品でも、一度完成して作者の手を離れると、それ自身の独立した生命が宿ると思うんです。〈しばし〉に関しても、スタッフやお客さん、企画関係者含めて、みんなで作り上げる場、この場所に命を吹き込んで生き物にしてもらってると感じます」
スタッフのアイデアやこの場所に訪れた人との会話、もちろんこの場所以外での出会いも含めて、いろいろな人たちの感性がクロスオーバーすることで生き物のようにこの場所が育っているという。だからこそ、中村はクロスオーバーの必要性を感じているのだ。実際に、この場にふらりとやって来たという小説家のいしいしんじとマンスリーイベントを開催したり、浄土寺にある〈SUNSHINE JUICE〉とコラボレーション企画を行うなど、プロとプロとの感性が響き合うことで新たな試みが次々と行われている。この自由な余白は、足を運ぶ客にもしっかりと向けられている。
「みなさん、食事したり、ぼーっとしたり、読書したり、大いに笑ったり、スピーカーに耳を澄ましていたり、思い思いに過ごされている中にありながら、注意書きというものが〈しばし〉にはないんです。それはみんながつくっている空間だと自然と感じていただいているからかもしれません」
こう話す中村の言葉をきっかけに思い出したのは、喫茶の時間帯に〈しばし〉を訪れた時のこと。店内を見渡すと、美術館帰りと思しき年配の方々が談笑し、隣では二人連れが楽し気に見つめ合っている。おすすめのレコードが聴きたいとスタッフにリクエストする若者グループがいれば、一人静かに本をめくる人の姿もある。それぞれが思い思いに過ごす中で、話し声とレコードから流れる音楽が自然に混じり合い、まるでアンビエント音楽のような心地よい響きを生んでいた。日常の中にひっそりと息づくセッションを目にしたような、そんな記憶がふとよみがえった。
プロの視線の先にある、未知なる景色が見たい衝動
〈しばし〉という場所で実験的にクロスオーバーで生まれる面白さを一つひとつ形にしている中村。なぜ、彼はクロスオーバーの必要性を感じるようになったのかのだろうか。それを伺うとこのような答えが返ってきた。
「ブライアン・イーノがアンビエント・ミュージックを作るきっかけとなったのは、”川の流れのように絶え間なく変化し、そして普遍的な音楽”を作ろうとしたからだそうです。クロスオーバーを変化を象徴する言葉だとすると、絶え間ない変化を通じて、新しい感覚や新鮮な視点を持つこと、そのことが世の中を面白くしてくれるからだと思うからです」
話を聞くうちに伝わってきたのは、彼の根底にある「面白いことをするために、風通しをよくしておきたい」という想い。そのマインドは、どのように育まれてきたのだろうか。さらに尋ねてみると、こう話してくれた。
「幸運にも、自分が関わった数々の素晴らしいアーティストから教わったことが多いです。例えば、テリー・ライリーやブライアン・イーノ。お二人とも、すでに歴史上の人物でありながら、過去は過去として、それにしがみつくことなく、常に未来に向けて作品をつくり続けているその姿勢に大変感銘を受けました。生きるということは、年齢と関係ないことも。90歳で生きている人もいれば、そうでない30歳もいると。だからこの先、その境地に遠く及びませんが、その姿勢を見習って、風通しのいい存在であれば、より面白い場として育っていくのではないかと思います」
最後に、〈しばし〉の今後について尋ねると、「やっぱり、長くやり続けていくことですかね。〈六曜社※〉の奥野修さんって、ほとんど休んだことがないらしいんです。ああやってずっと続けるっていう、地道だけどとても大事なことがあると思うんです。これからもジャンルを問わず、〈しばし〉を基盤としながら、外部にも発信していく、例えば昨年は、テリー・ライリーの清水寺でのライブをプロデュースしましたが、そういったことを積極的にしていこうと思います」と話してくれた。まだ構想中の企画もあるというが、その言葉の端々には、これから芽を出していく“面白い種”がいくつも隠れているようだった。
※六曜社:京都三条・河原町にある1950年創業の老舗の喫茶店。創業者の三男である奥野修さんは地下店のマスターでありながらシンガー・ソングライター“オクノ修”としても活動をしている。
「すべては初めて起こる」それは、中村さんが話の中でふと口にした、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩の一節だ。彼が深く感銘を受けたというこの言葉には、プロフェッショナルが見つめる先にあるものの本質が込められている。つまり、プロの視線の先に広がるのは、いつだって真新しい“白い余白”なのだ。
そして彼が多くを語らずとも、これまで中村さんが新しさを生み出し続ける先駆者たちと共に仕事をしてきて磨かれた感性は、〈しばし〉という場にも静かに息づいているように思われた。
〈しばし〉は、ジャンルや領域を越えて面白さを引き出す“交差点”であると同時に、彼がこれまで育んできた感性と響き合う人たちとその体験を共有しながら、プロフェッショナルの視点をそっと伝えていく場所でもあるのではないだろうか。
しばし
| 住所 | 〒606-8335 京都市左京区岡崎天王町76-16 |
|---|---|
| 営業時間 | 喫茶しばし:12:00~19:00(ランチL.O. 15:00) |
| 定休日 | 月曜日 |
| Webサイト |
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- 編集者 / ライター
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奈良県出身。京都在住。この街で流れる音楽のことなどを書き留めたい。
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