【マーガレット安井の見たボロフェスタ2018 / Day1】ナードマグネット / King gnu / the engy / ニトロデイ / クリトリック・リス
ボロフェスタがKBSホールに移って10年になるらしい。私は3年前から毎年欠かさず行っているフェスではあるが、このフェスは独特である。その独特さ、とは一体何か?というのをここ数年考えながらライヴレポートを書いてきた。
坩堝を楽しむ場所| ボロフェスタ2015 at KBSホール
唯一無二なアット・ホームさ | ボロフェスタ2017 at KBSホール
要約すれば2015年の記事ではボロフェスタは「坩堝」であり、去年の記事ではボロフェスタは「アット・ホームであり京都的」である。と結論づけたのだが、それだけではまだこのフェスの「らしさ」を言語化できたとは思えない。今年は私自身の仕事の関係で前夜祭のみの参加になってしまったが、思う存分堪能できたので、もう一度、『ボロフェスタの「らしさ」とは何か?』という事を考えてみたいと思う。ちなみにネタバレするが、このライヴレポートの最終的な結論はこうだ。
ボロフェスタとはオルタナティブであり、クリトリック・リスである。
ナードマグネット
Photo:Yohei Yamamoto
キングSTAGE、トップバッターを飾ったのはパワーポップ大阪代表のナードマグネット。今年はバンド史上初の両A面シングル『FREAKS & GEEKS / THE GREAT ESCAPE』を発売し、秋の風物詩的ライヴサーキットMINAMI WHEEL 2018では念願のBIGCAT(Eggs STAGE)でのライヴを行った。また来年には2ndアルバムの発売や大阪野外音楽堂での主催フェスの開催も控えており、まさに 今勢いに乗っているバンド、だと言っても良いだろう。
映画『パシフィックリム』のテーマで颯爽と登場。須田亮太(Vo. / Gt.)が開口一番、上司に「ロックフェス出ます」と言って有給申請をしたというエピソードから「俺達には仕事を休んで、音楽を楽しむ権利がある!」と高らかに宣言。ハード・ロックを思わせるファズを利かせたギターリフと須田の高音で軽やかな歌声が合わさるナンバー“アップサイドダウン”をドロップすると、会場全体がPOPなサウンドで満たされる。その後、彼らのライヴでは定番曲である“BOTTLE ROCKET”や今年発売された両A面シングルの1つである“FREAKS & GEEKS”を投下。観客もこぶしを挙げて応戦する。
彼らはボロフェスタに出演するのは今回で2度目。初回は2016年に街の底STAGEでのライヴであったが、今回はボロフェスタでは最も大きい舞台になるキングSTAGE。しかもトップバッターでの登場。「メインステージのトップバッターでやれるのは誇りです。この場に立ててうれしいです」と感慨深く須田が語った後、彼らのアンセム“Mixtape”を披露。会場から観客のシンガロングを巻き起こしたあと、“THE GREAT ESCAPE”、“ぼくたちの失敗”を披露しステージを後にした。まさに今の彼らの勢いや、観客と共にステージを楽しむ姿勢が垣間見えたライヴであった。
さてナードマグネットのライヴを観ながら「オルタナティブ」の意味を考えていた。ナードマグネットはパワー・ポップの影響もさることながら、オルタナティブ・ロックからの影響も強い。そもそも「オルタナティブ」という言葉は「代替え」という意味があり、オルタナティブ・ロックは産業ロックへの反発から端を発する音楽である。
ではこれをナードマグネットのスタンスに当てはめると、彼らの音楽は産業音楽のような、いわゆる売れ線とは違う。本人たちも以前ライヴで「自分たちの音楽は売れ線ではない」と話していたことからも、それを自覚しているようにすら感じる。しかし売れ線ではないが、ライヴでは確実に観客を楽しませているし、ファンもいる。そういう意味ではナードの音楽は「代替え」という意味でオルタナティブである。
しかしオルタナティブは「代替え」以外にも「型にはまらない」という意味を持っている。既存のロック・ミュージックとは一線を画した、今までにないタイプのロック・ミュージックを総称してオルタナティブ・ロックだという見解もある。そういう意味ではクイーンSTAGEの2番手として出てきたKing gnuはまさに「型にはまらない」タイプのオルタナティブ・ロックである。
King gnu
Photo:岡安いつ美
キング・クルーの“Dum Surfer”で4人が登場。1曲目は前進バンドSrv.Vinci時代のナンバー“PPL”。常田大希(Vo. /Gt.)の拡声器を使用したボーカリゼーションと井口理(Vo. / Key,)の澄んだハイトーンボイス、そこにバンドが紡ぎ出すダビーな音響が加わり、会場は異様な熱気とアシッドさに包まれる。その後、軽いセッションのあとに投下されたのは今年デジタル配信された“Flash!!!”。会場では拳を挙げるもの、ダンスするものと、それぞれの形でKing gnuのライヴを楽しむ。
King gnuの個性といえば、やはり「トーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイル」と称される、そのオリジナリティ溢れる音楽だ。彼らの音楽はジャズ、ヒップホップ、インディー・ロックを飲み込んだサウンドと、ダウナーとサイケの入り混じるアシッドなサウンドスケープが特徴的で、近似値的にいえば彼らがSEとして使っていたキング・クルーに近い。しかし彼らはキング・クルーをそのままやるのではなく、最新の海外の音楽と同期しながらも、日本語詩でメロウで人なっこいJ-POP的な大衆性も担保しているのだ。
さらに彼らはJ-POP的なだけでなく、ライヴでは多層的な楽しみ方を提案する。“アナタは蜃気楼”で「オイ!」のコールに合わせ、ロック・バンド的な煽り方で観客は拳を上げたり、“Vinyl”では観客の手をヒップ・ホップ的に上下に動かせたりとロックでも、ヒップ・ホップでも両側面の楽しみ方を見せてくれる。観客に様々な音楽の楽しみ方を提案する、それもまたKing gnuの個性である。最後はこの4人体制になって初めて作った曲“ロウラヴ”を披露。ダウナーな残響の中に光る、サマーポップなサウンドがいつまでも会場に鳴り響いた。
King gnuは「型にはまらない」タイプのオルタナティブだとしたら、関西でそのタイプのバンドはどれに当てはまるのか、と考えた。そこで思いついたバンドがいる。急ぎ足で街の底STAGEへ向かった。関西で型にはまらないポップを鳴らすバンド、the engyを観に行くために。
the engy
Photo:Yohei Yamamoto
京都出身の5人組バンド。10月には『Call us whatever you want』を全国リリースし、12月には京都GROWLYでワンマン開催も決定している。このバンドの特徴としては、ソウル、ファンク、R&B、ヒップ・ホップ、どの音楽からの影響も感じさせるのに、そのどれとも違う音楽を鳴らしているところだ。冒頭から“Modern slip”、“When you’re with me”を披露。バンドメンバーが織りなすタイトなグルーヴと、山路洸至(Vo. / Gt.)が見せるメロウながらツイストの効いたフロウが街の底STAGEに響き渡る。
そしてこのバンドのもう一つの特徴が、ライヴでの熱量である。音源を聴く感じでは「ポップで洒落た」という印象を受けがちであるが、いざライヴを観るとハードコア・ラップのような危うさと熱量でこちらに対峙してくる。ライブ中、山路のMCでも「音源より熱いものを見せるのがライヴやろ!everybody!」と観客へアジテートするところからも、本人達もそのことを理解しているかのようだ。
ステージ始まりは7割程度の客入りだったが、ライヴ終盤頃になると超満員。“She makes me wonder”でアーバンなサウンドと山路の情熱的でメロディアスなフロウが入り混じると観客はさらにヒートアップ。「来年は上で美味しい酒飲もうぜ。everybody!」と山路が観客に語り、ラストは“Headphones”を投下。ハードで熱狂的なグルーヴを街の底STAGEに巻き起こして、ステージは終了。今後が彼らの活動が楽しみになる熱いステージであった。
街の底STAGEで次のバンドを待っていると、先程キングステージで素晴らしいライヴをしたナードマグネットの須田亮太と会った。須田さんも次のバンド見るらしく「あの友達のいないギター、好きなんですよ」と言っていた。次に見るバンドは暗い楽曲も多いし、音も暗い。しかしその暗さを、轟音とヴォーカルの叫ぶような歌声で断ち消そうとしてくれる。まだ20歳ぐらいの若者たちにそんな音が出せることに、初めて観た時は大変驚いた。そのバンドの名前はニトロデイ。RO69JACK 2016 for COUNTDOWN JAPANで優勝した、東京のバンドである。
ニトロデイ
Photo:岡安いつ美
スマッシュ・パンプキンズが流れる中、4人の若者が颯爽と登場。1曲目は“カリビアンデイドリーミン”。岩方ロクロー(Dr.)の力強いビートと松島早紀(Ba.)のボトムの効いたベースから、小室ぺい(Vo. / Gt.)が声をからしながら叫ぶようにして歌う。その姿はまるで冴えない毎日の積り積もった鬱憤を己の音と声で晴らそうとしているかのようだ。
おもに90年代のオルタナティブ・ロックを参照点としているニトロデイ。具体的にいえばスマッシュ・パンプキンズ、ダイナソーJr、ニルヴァーナ。邦楽だとeastern youthやNUMBER GIRLも上がるかもしれない。しかし彼らは思春期に特有の衝動や葛藤、寂しさ、苦悩を確実に音にしているし、そういう現実を打破するかのように轟音と叫びにも似た声で歌う。そう彼らは90年代のオルタナティブの延長線上にいながら、今しかできない音楽をこのステージで鳴らしているのだ。
「街の底とか言われちゃって、這い上がるしかないなという感じです」と小室が次なる野望を語ったのちに、“ハイティーン”や“ヤングマシン”を演奏し、会場のボルテージをさらに上げていく。今年7月に発売されたEPの表題曲“レイモンド”ではファズを利かせたギター・サウンドとふがいない日常を打破したいと願う歌に思わず、胸が締め付けられた感覚に陥る。ラストは“アルカホリデー”、“フライマン”となだれ込むようにして終了。ほぼノンストップで演奏された30分程度のライヴを見て、この場にいる誰もが新たなるオルタナティブの日の出を見たに違いない。
ニトロデイのライヴ終わり、ボーカルの小室ぺいの服がナードマグネットのTシャツであったことに気がついた。確かに両バンドは今年の夏に対バンをしていたが、ナードマグネットの須田亮太がニトロデイのライヴを観て、ニトロデイの小室はナードマグネットのTシャツをきてライヴする。この一場面からも互いにリスペクトしている仲である事は明白だろう。また産業ポップスではなく、オルタナティブ・ロックの系譜にある点からも、ニトロデイもまたナードマグネットと同じ「代替え」という意味でのオルタナティブなのかもしれない。
ここで私は考えた。思えば今回、オルタナティブを「代替え」「型のない」の2つの方向性から見てきたが、その両者が合わさっているアーティスト、バンドはいなかった。ナードマグネットも、King gnuも、the engyも、ニトロデイも、「代替え」か「型のない」の1つの要素が強く、両者が融合している、つまり産業的ものへの反発であり、今までにはない新しいスタンスを見せる型破りなバンド/アーティストはいなかった。しかし最後の最後で、オルタナティブの「代替え」「型のない」の2側面を感じるアーティストが現れた。クリトリック・リスである。
クリトリック・リス
Photo:Yohei Yamamoto
ボロフェスタ1日目もいよいよ終盤。ジョーカーSTAGEの最後に登場したのはまさに関西のジョーカー的存在、下ネタのナポレオンことクリトリック・リス。まずはMC土龍と去年出演がなかったことへの和解も兼ねての乾杯を行い、リハーサルも兼ねて“クリトリサンバ”で観客集めをスタート。下ネタ意外と少な目で女子も安心、と前置きしてから本編1曲目は“レイン”。幼馴染の女の子に彼氏がいる事を知りショックを受ける、という思春期に誰もが体験する出来事をクリトリック・リスは額と背中に汗かきながら歌う。
今回は本当に下ネタ少なめか、そう思った矢先に鳴らされたのは“ミッドナイト・スカマー”。「生温かい風が僕の金玉を撫でる」、「陰毛まぶしたラブレターをポストにねじ込んだ」と下劣さこの上ない歌詞を男臭く、エモーショナルに歌う。やはり下ネタのナポレオンは違う。そう感心してると、ここからクリトリックリスは会場をかき回す。“ちゃう”では最前列にいた観客と熱い口づけをぶっかまし、“エレーナ”ではステージから飛び降りて物販席にいたニトロデイの小室ぺいをいじり始める。そんな体を張ったクリトリック・リスのアクトに会場もヒートアップ。観客も“柳瀬次長”ではクズコール、“俺はドルオタ”ではハゲコールで応戦。下ネタと自らの体をはって観客を巻き込み熱狂させる、これが出来るのは日本でも、いや世界でもクリトリック・リスだけではないだろうか。
しかしクリトリック・リスの真骨頂は、実は下ネタではない。本当の核となる部分は「希望を持ち続けることの大切さ」である。クリトリック・リスの歌は下ネタも多いし男臭い。しかしそれと同じくらい嘘もないし、見栄もない。そして誰よりも「俺は売れる」という希望に満ち溢れている。ライヴ終盤、誰よりも希望を信じる目で“1989”や“桐島、バンドやめるってよ”と歌う姿は「自分にはこれしかできない、でもこれをやり続ければいつか報われる」と言っているかのようで、ファンとしてではなく客観的に観ていた私の涙腺をも緩ませた。
そして最後に「BGMとして聞いて下さい」と言って流れたのはOASISの“Don’t Look Back in Anger”。ジョーカーSTAGEの出演者であったボギー、眉村ちあき、そしてナードマグネットの須田亮太までを引き込み、観客交えて大合唱。大団円のなかライヴは終了。型破りなエンターテイメントを叩きつける素晴らしいひとときであった。
さて改めてクリトリック・リスとオルタナティブについて考える。クリトリック・リスの下ネタと体をはって観客をわかせるスタイルは、オルタナティブにおける「型のない」と言うのに当てはまる。なぜならばこんなアーティストは世界を探してもクリトリック・リスしかいないからだ。では「代替え」の視点ではどうだろうか。クリトリック・リスの嘘もなく見栄もない状態で「希望を持ち続けることの大切さ」を歌う点は共感を誘うようなポップ・ミュージックなんかよりも、ずっと真摯的で共感される音楽である。そしてそれは産業ロックへの反発、すなわち「代替え」のオルタナティブとして成立してるのではないか。そのようなことを考えているとこのボロフェスタにはクリトリック・リス以外にも、もうひとつ「代替え」「型のない」の2側面を達成しているオルタナティブなものがある。それはボロフェスタ自身だ。
ボロフェスタは毎年100名近くのボランティアを呼び込み、D.I.Y.でフェスを作り上げている。その姿は大型のモニュメントやゲートがあるフェス的ではなく、高校の文化祭に近い。しかし、逆からいえばフェスでは感じられないような手作り感やぬくもりを感じさせてくれる。この商業的フェスの代替え的スタンス、そして他のフェスにはない特殊な手作り感やぬくもりという型にはまらない感覚はクリトリック・リスと同じオルタナティブの2側面に当てはまるのではないか。
さらに両者は「代替え」「型のない」のオルタナティブだけを越えて「音楽の力と観客」を信じている。地域密着型でボロフェスタという音楽フェスを続けられたのは、それはひとえに音楽の力と観客を信じているからだ。そうでなければ15年以上もD.I.Y.で続けているのは不可能である。 そしてクリトリック・リスもまた誰よりも音楽の力と観客を信頼している。そうでなければあんな下ネタと体をはったパフォーマンスで、観客をわかせる事は出来ない。「代替え」「型のない」というオルタナティブの定義、「音楽の力と観客」を信頼する両者。そう考えたとき、この結論に私は至った。
ボロフェスタとはオルタナティブであり、クリトリック・リスである。
You May Also Like
WRITER
-
関西インディーズの水先案内人。音楽ライターとして関西のインディーズバンドを中心にレビューやインタビュー、コラムを書いたりしてます。
OTHER POSTS
toyoki123@gmail.com