Dig!Dug!Asia! Vol.4 イ・ラン
「台湾のシーンが熱い」と透明雑誌が日本のインディーシーンを騒がせて、早くも10年近くになるだろうか。その間にもアジア各国を行き来するハードルはどんどんと下がっていった。LCCの就航は増え、フェスなどのリアルな場、そしてSNSや各種プラットフォームが整備されていくことで、文化的な交流も随分と増えたように思う。
その中で日本はどうだろうか?十分に交流が生まれているだろうか?アジア各国からの発信を待つだけでなく、もっとこちらから知ることが必要ではないか。なぜならとっくのとうに、アジア各国はつながっているから。アジア各国からの発信を待つのではなく、こちらからももっと近づきたい。
そんな思いからはじまったこの連載。アンテナのライターが月替りでそれぞれにピンときたアジアのアーティストを今昔問わず紹介することで、読者の方とアジアのシーンにどっぷりつかってみることができればと思う。
紹介するアーティスト:イ・ラン
拠点:韓国
活動年:2012年 –
ディスコグラフィ
『ヨンヨンスン』(2012)
『神様ごっこ』(2016)
『クロミョン(그러면) ~ Lang Lee Live in Tokyo 2018 ~』(2019 ライブアルバム)
『ランナウェイ』(2019 柴田聡子との共作) 『患難の世代』(2020 予定)
著書
悲しくてかっこいい人(2018 エッセイ集)
私が30代になった(2019 コミック)
近年の韓国のフェミニズムとイ・ランの登場
きっかけは2016年の江南駅女性殺人事件であった。江南駅近くの雑居ビルのトイレで当時23歳の女性が殺害された。犯人の男性は逮捕されたが、後日「社会生活の中で女性に無視された」と供述したことから、女性嫌悪(ミソジニー)を感じた女性たちが、その夜のうちにTwitterで追悼を呼びかけた。翌日には事件現場に追悼のため多くの女性たちが集まり、集会やデモを行った。
奇しくもこの事件があった同時期に韓国社会における女性差別を告発したチョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジョン』が出版され、100万部以上のベストセラーを記録。その後、アメリカで発祥したMe tooムーブメントが到来し、その流れを受けて盗撮動画根絶に対し数万人が街に繰り出すデモが起こるなど、韓国は今、フェミニズムに対して熱気が高まっている。もちろん2016年以前から女性運動はあったが、大きな力を結集することができるようになったのは、最近のことである。そしてフェミニズムの流れで注目され始めるアーティストがいる。イ・ランだ。
イ・ランは1986年ソウルに生まれる。2017年にリリースしたセカンド・アルバム『神様ごっこ』で、第14回韓国大衆音楽賞最優秀フォーク楽曲賞を受賞。日本にも度々来日し、柴田聡子や折坂悠太などと共演をしている彼女だが、自身について「フェミニストである」と公言し、さまざまなWebサイトで自己の体験を踏まえて、多くの人にフェミニズムを波及するように努めている。
彼女が自身をフェミニストだと公表したきっかけは2018年の#Me tooのツイートからではあるが、2017年の『神様ごっこ』の時から、彼女の歌からはフェミニズム的な文脈が読み取れる。その活動は今も拡がりをみせ、2020年にリリース予定のニュー・アルバム『患難の世代』では韓国のカルチュラル・フェミニスト団体「Unninetwork」の一員であり、性の多様性とフェミニズムを支援する合唱団、Unnie Choir(オンニ・クワイア)と共演するなど、対外的にも交流を図っている。
イ・ランが歌う、生きることのシビアさ
イ・ランの音楽はギターの弾き語りという実にシンプルなサウンドで紡がれる。そしてそれゆえに、音に注視するよりも、彼女の歌詞や歌声が魅力的に機能する。そんな彼女の歌は日記代わりに歌詞を書いていたこともあり、ありふれた日常の一コマを極端な比喩表現を使わず、淡々と描き出している。だがそこには必ずといっていいほど、彼女の感じた「生きづらさ」が横たわっている。
例えば『神様ごっこ』の“世界が私を憎しみはじめた”という曲ではこのように歌う。
私が行かなくてもいいパーティーに招待された
招待客名簿には 私の名前が間違って書かれていた
私は自主的に生きようと考えた
だから私が選択しない事柄について2回ずつ考えてみた
でも日常という名のもとに 食べたり飲んだりすることや
寝たり動いたりすることは 私にはどうすることもできなかった
また“笑え、ユーモアに”では自分が笑う理由を存在証明であるかように描く。
この私が生きているのか あるいは死んでいるのか
大きな声で確実に笑わなければダメ
何かに反応するのをみせろという言うわけさ
いまいる場所で不安にならないこと
ここにいたということを確実に知らせるために
ここで描かれていることは人からすれば「こんな些細な不満で悩まなくてもいいだろう」と思うものかもしれない。しかし世の中にはそんな些細なことに傷つき、1日中悩む人もいるのだ。イ・ランは、自己啓発的に生きている素晴らしさを言葉にするのではなく、「あなたは一人ではない。自分も同じ境遇である」と悩める人々へ寄り添ってくる。
この「生きづらさ」というテーマは彼女の音楽だけでなく、例えばコミック・エッセイ『私が30代になった』や短編小説『手違いゾンビ』※でも、メインテーマの1つとして据えられている。そしてそのどれもが解決策を出すのではなく、自らが思った、または体験した生きづらさを、そのままの姿を描き出し、読者・聴衆に共有していく。
※『手違いゾンビ』は2019年に発刊された斎藤真理子・責任編集の単行本『完全版 韓国・フェミニズム・日本』に掲載された短編小説。エキストラでゾンビ役になった男がひょんなことから大人気者になる。しかしエキストラとしての経験を積み演技の実力をつけたいと思う男は、トントン拍子にスターへの階段を上がることに対して憤りを感じ始める。
生きづらさを共有し、フェミニズムを考えるイ・ランの歌
さて私はイ・ランの歌詞がフェミニズム的だと書いたが、別に彼女は家父長制のことも、男尊女卑について歌っているわけではない。一般的にはフェミニズムとは女性運動から派生したものであるのだが、彼女の歌詞は性差に縛られることなく「生きづらい人間のために同じ目線に立ち、生きづらさを描き、寄り添う」ことをフェミニズムとしていると感じる。そんなイ・ランのフェミニズムの思想は、2年ほど前にフェミニストであり社会学者の上野千鶴子氏が行った東京大学の入学式でのスピーチとリンクする。
フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。(平成31年度東京大学学部入学式 祝辞)
日々「生きづらさ」を感じ過ごしていたとしても、「そのままで生きてもいいよ」というメッセージを提示するイ・ラン。今も世界のどこかでは考えの違う人間を排他的に扱い、分断を深めているような状況がある。だからこそ、イ・ランの歌を聴いてほしい。そして「イ・ランの歌に出てくる人々はどうしたら、幸せに過ごせるのか」ということを自身に問いかけてほしい。生きづらさを共有する、それこそが分断する壁に穴を開けてくれる第一歩なのだから。
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関西インディーズの水先案内人。音楽ライターとして関西のインディーズバンドを中心にレビューやインタビュー、コラムを書いたりしてます。
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